おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

考え事の話

いつでも何かしら考えていがちではあるものの、特に考える機会が多いときは眠剤でも頓服でも薬を飲む前後である。

 

 

わたしはいつまで薬を飲むのか。

薬が減る日は来るのか。

飲まなくていい日は来るのか。

わたしを受け入れてくれる人はいるのか。

まともに働いていける仕事は見つかるのか。

わたしはこのままゆるやかに死んでいくのか。

 

予定は未定の大安売り状態である。

 

残念ながら、ぼんやりとした頭で考えるコトは大抵がネガティブだ。先への不安、実家や転職回数、病気のコンプレックス、薬なしでは全くいうことをきかない自分の脳みそへの絶望と苛立ち。

 

 

 

世の中の人たちの社交辞令や根拠のない励ましを抜いて現実を見ると、好き好んで障害者を選ぶ人はいない。実家が太い、資産が多い、そういう類のボーナスがついていれば話は別だが、わたしにはなにもない。かなしいほどに本当になにもない。

 

ひとりで生きていく覚悟もなんとなくはある。なんとなくはあるものの、正直なところひとりで生きて何になるのだと思ってしまう。自分ひとりのために生きる人生にはもう飽きたし疲れてしまった。ひとりだといつだって病気や薬と向かい合わなければならない。かなしいが現実だ。受け入れるしかない。

毎晩寝る前に飲む薬、出掛けるとき万一のためにと持っていく頓服、薬の副作用が多く出るからお酒は人が飲むようには飲めない。いつでもわたしを助けてくれる薬が一緒で、いつでもわたしを縛り付けるのも薬だ。なければ何にもできない。惨めで情けなくてかなしくなる。

 

なんでこんな病気になってしまったのか。発症前、薬を全く飲まずに元気だったころ、たくさんたのしいことがあって、なんの心配もしていなくて、みんなと同じように笑いあってたあのころ、だんだんと思い出せなくなってきてしまった。どうやってあんなふうにしていたのか、全部がぼんやりしてきた。せっかくまともなころのわたしの思い出なのに。少しずつ曖昧になってきてたのしかったことも、不安なく過ごせてたことも、わからなくなってきた。どうしてわからなくなってきちゃったんだろう。それすらわからなくてこの気持ちをうまく伝えることばが見付からない。

あの頃の記憶は自分の中で大切にしまっておこうって、親に捨てられたり、壊されないものだから大事にしようってそう思っていたのに。どこに置いてきちゃったんだろう。見付からなくなっちゃった。

病気と薬のせいでどんどん馬鹿になる。頭の中にもやがかかって今まで取り出せていたものがどんどん取り出せなくなる。使いたかった言葉も頭の中で見付からなくなってきた。当たり前に覚えられたことが全く覚えられなくなってきた。本を読むのだって好きだったのに覚えていられなくて同じページを難度も読むしかなかったときが何度もあった。馬鹿みたいでそんな自分がいやになった。好きで気に入っていて大事に取っておいた本も読めなくなって、悔しくて捨ててしまった。置いてあっても屈辱感を覚えるだけ。かなしい。これからもたくさん本を読みたいのに。少し調子のいいときに負担にならない程度に読むことしか出来なくなった。こんなのは趣味じゃない、ただのリハビリだ。

 

やっぱりこんなんじゃ誰からも必要とされない。負担になりすぎる。せめて健常だった頃の状態を保ったまま歳を取ることができればよかったのに。今となっては過ぎたる願望になってしまった。

 

 

 

 

いつかまたよくなるのかな。

あぐれ