おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

夕立の話

最近めっきり聞かなくなった言葉である。



昨日だろうか、久しぶりに夕立的な夕立に遭った。
空には稲妻が走り、少し経ってから大粒の雨が降る。
夏の風物詩にようやく会えた気がした。

以前の記事でも書いたかもしれないが、わたしは傘が好きである。
ビニール傘と折り畳み傘はわたしの美徳に反するため持たない。
何もないときに雨が降ったら、それは濡れて帰るべき時なのだと思う。

傘の何が良いか、
自分の領域を作れるような気持ちになれること
傘の上で爆ぜる雨音がよい
何となく守られているような気分になること
そんなところである。


とはいえ、傘を使うのは雨の日だけではない。
3月あたりからは日傘でだいたい11月か12月まで使い続ける。
日傘は黒か紺、雨傘は白と水色か青のストライプと決めている。
晴れの日には自分で影を作り、雨の日には晴れの雰囲気を自分で作るのである。
単純だが、自分の機嫌を自分で取るには至極有効な方法である。




賞与が入ったらまた少しいい傘を買うことにする。




そんなところで。




まるまるビリリダマ

待ち時間の話

平気な人と苦手な人がいるだろう。
ないに越したことはないもののひとつである。


わたしは割と平気な方で後の予定が詰まっていなければ気ままに待つ。
しかしながら、よく聞く「毎回遅れる知人」のような存在がいたらそうはいかないであろう。
ちなみにわたしの友人知人にはそのような人はいない。というより、毎回遅れる人は基本的に会うことをやめたため、いなくなったという表現が正しい。



現在、絶賛待っている状態であり、こんなタイトルになってしまったわけだが、なかなか便利な世の中で読書の代わりに高機能小型携帯電話機のおかげで無駄な時間を有意義(?)に過ごせるようになったわけである。
この駄文を書き散らすことが有意義であるか否かはさておき、時間潰しの選択肢が増えるというのはいいことだ。


なんて書いている間に呼ばれたのでまたの機会に。



そんなところで。



まるまるマリル

コルセットの話

再燃しつつある。

 

 

 

コルセットとは

 

コルセット(英: corset)は、女性用ファウンデーションの一種で、近代から現代にかけて欧州大陸で一般に使用された。胸部下部よりウェストにかけてのラインを補正する役割を持ち、ヒップの豊かさの強調と対比的に、胴の部分を細く見せた。イギリスでは、コルセットとほぼ同じ目的の補正下着としてステイズ(英: stays)があった。重層的な構造を持っていたので、ヨーロッパ北部では保温目的でも着用された。20世紀半ば以降は、ファウンデーションの素材の進化とファッションの方向性の変化でコルセットは廃れ、今日では、医療・運動補助用や趣味、一部の民族衣装を着用する際の装身を目的として使用される。

(wikiより引用)

 

 

わたしは15,6のときからコルセットが好きで当時の自分にとって高額な代物であったが、ひとつ手にしたときから虜になった。

装着して締め付けられる肋骨の感覚

誰かに抱きしめられているような錯覚

身体の自由が奪われる恍惚感

こんなところがコルセットのよさであった。

 

無論、フルクローズを目指して身体を綺麗に見せたいという部分がなかったわけでもない。

有り得ない腹部の細さ、それに憧れてもいた。肋骨を抜くことさえ考えた。

 

 

 

最近はまたコルセットを着ける日が増えた。

この馬鹿みたいな暑さにも関わらず、である。

 

理由はいくつかある。

人恋しいようなときに着けるとなんとなく落ち着く。

半分自傷の代わりに締める。

その他もろもろ、、、

 

 

 

まあ、コルセットをしていると嘔吐しづらいというのもある。

最近はストレスに耐えかねてしょっちゅう嘔吐しては、顔面痣だらけ、喉の痛みを引きずりながら過ごしていた。

嘔吐を考えれば、コルセットしておいた方が幾分か健全であろう。

本来の使用目的と大きく外れている気もしなくもないが、そんなものはこの世に数えられないほどある。

責めたければどうぞ誤った認知と歪んだ感性のわたしとそれを形作った両親と環境を責めてくれ。

 

 

 

こんなものでさみしさを紛らわし続ける限りは永遠にひとりで過ごすことがお似合いなのだろう。

 

 

 

 

まあ、そんなところで。

 

 

 

まるまるマリルリ

生きていますよの話

台風が来るらしい。

 

 

そんなことよりも前回からだいぶ期間が空いてしまった。とりあえず人並みの生活は出来ているため、ご心配なく。

 

ここのところは、諸事情あって朝晩朝晩疲弊気味で帰宅したら即書類をまとめて、次の日の準備。

毎日この繰り返しであった。

というか、まだこの日々が続く。

 

 

 

そんなことより、理解ある方から自転車を頂いた。

わたしが自転車を持つのはかれこれもう13年振りくらいになる。何せ当時は自転車を乗ることが禁止されていたため、相当のブランクである。

ちなみに乗ってみたが、もちろんペーパードライバ ー的な運転技術となってしまった。

技術は使い続けなければ鈍るものなのだと痛感した。

 

 

練習が必要なのは自転車でも何でも同じである。

おそらく次の更新は今月後半か最終週あたりだと思う。

 

 

 

今回はそんなところで。

 

 

 

まるまるスヌーピー

気分安定薬の話

効いているのかいないのかわからないというところが正直な感想である。

ちなみにリチウムは出ていない。

今のところは
ラミクタール 100mg
頓服で
睡眠系分類で
ブロチゾラム わからん(名称も忘れた)
デバス 1mg
その他
あたりで完全に肝臓の薬物代謝は追いつかないだろう

いつまでもつのかもたんのか

もたないほうが幸せかもしれないし、そのあたりは正直な話ちょっとよくわからないが、長生きしない方が幸せなんだろうなあということだけは漠然とわかる


わたしの持論ではあるが、個々人には政府だかどこかの研究施設だかが設定したお偉方の平均余命なんかよりも健康余命よりも大事な部分が抜け落ちすぎていていまいち諸手を挙げて賛同しかねる部分がある。

雑な言い方をすれば各々の尊厳余命である。寿命と書くとなんとなく語弊がある気がするので全て余命で統一した。

尊厳とは何かという定義から始めなければいけない気もするが、大方読者の方々が考えている尊厳と相違ないと信じているため割愛する。このあたりは了解可能、不可能のことを調べて適当に納得しておいてほしい。 

単に足腰が動き、元気に見えるようであっても、現役時の蓄えと僅かな年金、加齢で弱る思考、経済活動、その全てに尊厳はあるのだろうか。彼らは惰性で生きているのか、それとも何か崇高な目的も持ち、後世に残る何かを託すために生きながらえているのだろうか。後者のような人間は少数だろう。わかりやすく言えばいわゆる一般的な「孫の成長を見たい」「最後に〇〇へ旅行をしたい」その程度の幸福をあたかも重大なことのように言ってまわるのが関の山である。
もしくはわたしのこの思考自体が彼らの尊厳を傷付けているのだろうか。
まあ、それならそれでよい。相容れない人間同士は会わずに済むならそれがいちばんなのである。別にわたしはご高齢の方々に対して積極的に死を選べを申し上げている訳では無い。

わたしにとってこの薬漬けの生活に尊厳はあるか、問われると非常に答えづらく、もし安楽死が可能であれば即座に選ぶだろう。注文をつけるならば、死んだ後はなるべく新鮮な状態で使える臓器を誰かに移植し、使えるところは余すことなく使って欲しいというところである。
薬か、飲んでいるだけで国内の社会保障費を圧迫するんだろうか、生きてるだけで考えるだけで申し訳なくなってくる。



そんなところで。


考ええれは考えるほど負の連鎖。、

血痰の話

慣れない生活が続き、生まれて初めて血痰が出た。

 

 

初めは面白がっていたものの、熱は上がりに上がり、最終的には39.6度。

インフルエンザを疑うも、正直外出する気力がない。そもそもインフルだったら、なんの薬をもらおうとも抜本的な解決にならないのは存じ上げておりまして、熱が出るまま好きにさせておくつもりだった。これが4/30の判断である。

 

結果として4/4まで39度台の熱は長引き、ほぼ扁桃炎であることが確定、致し方なく救急病院に駆け込み適当極まる受診の末、自宅に帰ってきたという次第。

 

平成も令和も扁桃炎の熱の中で勝手にどうこうなってしまった。

正味、わたしにはどうでもいい話で、今は少しばかりやらねばならない手続きが重なりすぎていて気が重い。

 

 

 

まあ、扁桃炎にならなければ日々の健康がどれほどありがたいか実感できなかったというのまた皮肉なものだろう。

気分安定薬導眠剤睡眠薬、副作用防止薬、頓服、解熱剤、鎮痛剤 合計で何錠あるのか数えるのも億劫である。

健康な方々は薬を飲まないというだけである程度の幸福なのだということを知るきっかけになってくれるとうれしい。

 

 

 

そんなところで。

 

 

また焼くも扁桃腺、切るも扁桃腺。

迷いどころ。

平和って言葉がなんか懐かしく聞こえないかの話

今は昔の話である。

 

まあ、以前の記事にも書いたであろうが高校の時あたりで聴くとボロ泣きしていた曲である。

 

親は当然のごとく子を愛し、子もまた親を敬い感謝する。

なんともぬるく型通りでつまらぬ発想である。

 

 

こんな斜に構えた思考も認知の歪みゆえか。

認知の歪みか、何一つ治る見通しは立たず、カウンセリングでも受ければ変わるか?

 

 

変わらないだろう。

何も変わらないのである。幼少期からの刷り込み、脳の奥深くまで植え付けられた他人への不信感、特に男性への恐怖と大人への失望。

 

 

 

変わりたいのか、変われないのか、自身の意思はもはや分からない。

 

 

 

理解を深めることはすなわち自身の思考を縛ることであり、思考停止はもはや人間としての死と相違ないであろう。

 

 

 

 

夜の思考はあまりよくない。

 

 

 

 

今夜は青色。