おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

ログインできたの話

ログインできたというだけのことである。



久しぶりに書く気になったものの、ネットからのログインができなくて心底困り果てていた。

アプリで解決した。





タイトルとは関係なく、近況を書こうと思う。



仕事は相変わらずの低空飛行だが、可もなく不可もなく生活ができる程度である。

問題はやる気のない出勤日数にも関わらず、月に数日病欠をしていることだ。仕事に対して熱量が低いから欠勤が増えるのか、そもそも本当に体調が悪いのかはもはや自分でもわからない。

職場の人もわたしがいないからといって困るのか?と問われれば、答えは「否」であるだろうし、ここのところは全てのコミュニティで、もともとゆるかった繋がりが更に希薄になりつつある。


友人が多い人、職場での人間関係を重視する人、血縁を信仰する人、それぞれ自由だとは思うがどれもわたしにとって重要なコミュニティではない…と思う。
断言しないのは結局のところコミュニティから切り離されたわけではないため、失ったときの感情をうまく想像できないからである。

コミュニティの喪失は人の死に似ているようにも思う。
今のところ、幸福なことに親しい友人知人で鬼籍に入った人はいないが、今後一切会えなくなるとなったときはどう思うんだろうか。

ちなみにわたしは自分の死が他人に影響を与える想像ができない。積極的な死を望んでいなくても、望んでいて叶ったとしても、喪の作業としての悲しみはあるだろうが、人の文化がそうさせるのであって、わたし自身がいなくなったことに対する感情や行動の変化ではないと思う。
他人に対しても似たことを考える。死んでほしい人はいないが、例えば誰かが亡くなったとして本当に故人を悼む気持ちなのか、故人を悼むことが文化として刷り込まれているからそうしているに過ぎないのか違いがわからない気がしている。

そう考えると、コミュニティの喪失や追放、脱退、解散も存外たいしたことはないのかもしれない。
さすがに自ら関係を破壊することはないと思うが、単に円滑に過ごしたいがためにコミュニティに所属しているのか、コミュニティに所属している自分が文化として必要だからそうなっただけなのか、いずれにせよないと困るがだからどうした?という結論になってしまいそうなので今日はそんなところで。



我ながら驚くほど他人の感情がわからなくて困るが、言うほどには困っていないことに困っているという矛盾がある。
近況ではなくなってしまった。





ぬるぬるニョロモ