おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

コントラスト

昨日に引き続き小夏日和である。

気温だけみれば既に立派な夏だ。小夏どころの騒ぎではない。レモネードでも飲んで熱中症には気を付けましょう。

なんかね、敬体で書きたいんですけど、機を見失いました。一回くらいですますしてた気もしますが、何かのタイミングでしれっと全部変えたいです。願望でした。

 

 

 

 

 

日の出ている時間が長くなった。朝は4時半くらいに薄ら明るくなっている。夜も18時を過ぎてもそれなりに明るい。太陽が元気な季節になってきている。

これくらいの季節だと光と影の対比が良い。暑いという点に目を瞑って、木洩れ日や水面に反射する宝石屑のようなきらめきをぼんやりながめていると、空気に溶け込むような気持ちになる。おだやかな生活の極点であるように感じる。

 

 

 

 

わたしは写真が苦手である。撮るのも撮られるのも、昨今人気のインスタグラムとやらのように写真を通した自己顕示欲の擦り付けもそこそこに苦手である。

写真自体が嫌いなわけではない。写真を撮っている人を見るのは好きだ。ファインダー越しに何を思うのか、ぼんやり考える。写真を撮る行為はそれ自体が絵になる。絵にならない奴はたぶん自慰の延長なのだろう、気持ち悪くて目を背けてしまう。

 

何故写真を撮るのが苦手なのか、自分なりに少し考えてみた。単純に写真への興味関心が低いことが最もだと思う。それから、写真で見るより自分の目で見た方がいいと思っている部分があるのかもしれない。

花火に行ったとき、とりあえず何枚かは撮るものの正直どうでもいいと思ってすぐにやめてしまう。でも、周りの若い子たちは必死になってスマホを構えている。スマホの解像度なんてたかが知れているというつもりはない。わたしの目には高いカメラとの違いがわからない。充分である。彼ら彼女らを見て思うのは、思い出を残すことに必死で肝心の中身は何が残るのか?そんな疑問を持っているだけだ。

おそらくわたしがわからないだけで、写真を撮ること自体もそれなりに楽しく、その後の加工やら友人との見せ合いやら、そういうものひとまとまりでああいう行為になっているのだろう。花火に行ったら直接見ろ。すっかり言うことが老害じみてきてしまった。そろそろ目と口を噤んで孤独に暮らすしかないのかもしれない。

 

 

 

 

いい写真とは何か、全くもってわからない。多くの人に訴えかける何かがある写真がいい写真なんだろうとは思う。「何か」とは一体なんなんだ。考えてもよくわからない、まあわかりやすいコントラストのある写真なんかが当てはまるのではないかと思う。

彩度でも輝度でも構図でも、何かと何かの対比が重要なのだろう。存外、写真の中だけでなく、枠外の対象とのコントラストが受けたりするのかもしれない。全部適当である。

 

記憶がある限り、いろんなことを遡って考えてみる。人生にもそういう類の対比は必要なのだろうか。絶対的な幸福があれば知りたい。わたしの弱いおつむで考えても、残念ながら幸福も不幸も相対的なものである気がしてならない。

相対とはいえ、他者と比較する必要があるのかというとそれも違うと思う。ありがちな表現をすれば過去の自分との対比で現状に満足できていれば、それが幸福なのではないかと思う。わたしは概ねしあわせである。

よくある「あの頃はよかった」

「あの時に戻れたら」

そういう諸々は基本的に考えたことがない。

いつだって、今日がいちばん若いし、今がいちばん楽しい。

最高値を更新していけるような過ごし方をしたい。

 

無職で金魚くらいしか話し相手がいなくても、おだやかな生活を送れる毎日は幸福以外の何物でもない。欲を言えばきりがない。なんでもあるもの、ほしいものを手に入れればいいか、そういうことでもないだろう。資本主義的な発想はきらいではない。物質で精神を満たすことには限界がある。そう思う。

 

華美が迎合されるのは近代の金持ちだけで充分である。物質的な貧困を経験したことがないというのは本当に幸福なことだと思う。要らないものを「無駄」だと切り捨てる思い切りのよさが身に付いた。成金が必死で高級車を乗り回し、タワーマンションに住み、美男美女を侍らせ、そういうことをするのはプロモーションの意味もあるだろうが、単純にそれまでの過程との対比が強く出てしまったからだと思う。ある種のコンプレックスだろう。これも全部適当である。

 

 

雑誌の星座占いか、わたしのブログか。

信憑性に欠けるという意味ではいずれも同列だろう。

 

 

 

 

だんだんタイトルと関係なくなってきてしまった。

日々に満足はしているものの、ひとりぐらしには飽きてきてしまった。

ひとりでできることは粗方やった。

30歳前後がちょうどいい頃なのかもしれない。大学を出て、働いて、もしかしたら転職もして、自分で自由な時間と金銭を手に入れて。

いつの間にか、求む求めずに関わらずしていることが一端の大人になってしまった。

いいのか悪いのか、わかるのは棺桶の中に入る頃だろう。

 

 

 

職に就いたら、ゆっくり伴侶探しでもしようかと思う。

いるのかいないのかは探してみないことにはわからない。

いないと断ずるよりも、いるかもしれないの方が希望があるという見方もできる。

斜に構えず、素直な気持ちで過ごしたい。

 

 

 

 

 

ずっとひとりじゃやさぐれちゃうね。

あぐれ