おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

人生初の話

読んで字の如く生まれて初めてのことである。


そんなことより私事の諸々が一段落し、今年度を振り返り、なんて心穏やかに過ごしてきたのだろうかと考えていると非情に無意味で有意義な時間であったとしか表現しようがなく、自身の語彙の少なさに悲しくもむなしくもなるのである。

無意味は、そのまま本当に意味のない時間であった。仕事をしていればその分キャリアも積めたであろうし、わたしの病的な貧困妄想は緩和されたかもしれない。資格試験も合皮はまだわからないし、無意味であった。
無意味と言い切れてよい時間であった。

有意義はまる一年、もしかしたらもっと昔からの重なりがあったのかもしれないが、掲題の通り、生まれて初めて自分の何でもない日常が連綿と続くのではなく、いつかどこかで何が原因かわからない瞬間に終わりを迎えることを考えて「かなしい」やら「さみしい」という感情を抱くようになった。
卒業式や転校、送別会、そして葬儀
そういう諸々の別れの場面で泣くひとたちのきもちが全くわからなかった。わかってもわからなくてもよかったことが、初めてなんとなくわかった気がした。

今、何かに怯えることもなく、何かを恐れることもなく、ただただゆっくり時間が流れていくのをしあわせだと感じたり、誰かと会う約束をしたり、誰から返事が来ることを楽しみにしたり、誰かがしあわせになってほしいとか、毎日平穏に過ごしてほしいとか、そういう気持ちも何もかも、全部が急に無になってしまうことがこんなにかなしいことなんだとようやくわかってきた。今更ではある。



今更でも気が付けてとてもうれしかったので久しぶりにブログを書いたというわけである。
わたしはこれからなんとなく誰かの配偶者になることもなく、ひとりで他人のしあわせを見ながら、そのおこぼれに与って、やわらかい気持ちを抱いて生きていければいいと思っていた。わたしも病気じゃなかったら、もっとたくさん本当に言いたいわがままもしたいこともたくさんあった。
過去形にしてしまうとできなくなくなってしまいそうなので、今後のことはわからないことにしておく。
だが、これからもわたしはわたしが自分のすきなひとたちがしあわせにおだやかに平和に過ごしてくれたらそれがいちばんなのだと思う。





いつだったか、誰かの結婚式のとき、新婚の方へ向けて手紙を書いたことがあった。
丁寧に返事が来た。
「あなたもどうか素敵な人を見付けて自分の人生をおくってください」
こんな感じの文が書いてあった。自分には関係のなさすぎる事柄かと思っていたことを他人からしかも社交辞令であろう文を読んで思わず泣いてしまった。
当時はどう考えてもわたしにそんな余裕はなかったし、そんな望みは持つべきではないと思っていた。
でも、泣いた。
とにかく泣いた。
今思い出しても泣ける。本当に自分がそんなしあわせを望んでもいいのか、人並みなことかもしれないが、人並みではないわたしを
まあ、あんまり書くと泣き始めるからここら辺でやめておくか。




とにかくわたしにもわたしの人生があることはわかっていたのだが、それが唐突になくなる日のことを考えてこわくなったのである。
ただそれだけのことだった。
そんなところで。





ここのところは心の底からしあわせなことが多くて様々な事象に甘えがちで、こわがりつつも試しているようなことばかりだったが、いつかわたしもいたずらをやめて他人の顔色を窺わなくて済むようになりたいなと思った。
それでも、いたずらはやめない気もするが、おおらかなひとたちにめぐまれたのでそれはそれでよしとする。







わたしはひたすらにしあわせである。









変な色したチラーミィ