ほしいものの話
なんでも手に入るとしたら。
もしもの話に少し似ていると思う。
ドリームジャンボが当たったら、ロトシックスが当たったら、ポジってた銘柄が爆上げしたら、めちゃくちゃ金持ちの親戚から莫大な資産を相続したら。
まあ、そういうのももちろんほしいけど、もう少しよく考えてみる。お金で手に入らないものはそれなりに少ない。
今はそんなにほしくはないけど、小さいころは両親が仲良くなってほしいと思っていた。怒鳴ったり殴らないでほしいと思っていた。お金はあったはずなのに解決しなかった。かなしいとかつらいという高次の感情は湧き起こらなくて、あるのはただただの虚無感・無力感。なんにもできないのだ。泣けばもっと殴られる。泣くなと怒鳴られる。家の中では泣かないようにした。外でもうまく泣けなかった。卒業式、知人の転校、映画や小説のラスト、クールを気取って泣かないわけではない。自分でもよくわからなかった。薄情な人間だと思われていたかもしれない。
発症してから、唐突になくことが多くなった。カウンセラーは「今までとのバランスを取っているだけだから」と諭してくれた。22年間分これから泣き続けなきゃいけないのか、先は長い。
ほしいものの話である。
正常な脳みそがほしい。人と同じように動く自律神経がほしい。いいのだ、これはどうせ手に入らない。脳みそでも誰かと交換してみようか、その人はどうなる。薬を飲んで症状を抑えて、いつくるのかわからない焦燥感不安感動悸や息苦しさ灼熱感に怯えて生きていくしかないのか。要らない脳みそだ。結局、誰かから奪うことになってしまう。そういうことはしたくない。
現実に近づいてみよう、何だったら手に入る可能性があるだろうか。
難しい。
もう異性と付き合うのは無理な気がする。付き合ってくれる人がいるかもしないとして、不良品を差し出すのはあまりに申し訳がない。せめて病気さえなければもう少し自分のことを素直に肯定できたかもしれない。
夢にはしているものの「わたしとその家族が安心して帰れるところを作る」というのも半ばあきらめてしまっている。家族とはなんなんだろう、正直よくわからない。わからないという感情しかわからなくてただただかなしい。お金ではないのだ、お金は最低限のもので、その上に安定した家族はできるはずなのに肝心の家族がよくわからない。まともなロールモデルを知らないわたしが家族をほしいなどと思うこと自体おこがましかったのかもしれない。
みんなしあわせになっていく。わたしも概ねしあわせである。でもわたしには帰る実家もなければ、守りたい配偶者や子どもがいない。わたしは概ねしあわせである。
ほしいもののことを考えるとき、生きててなんになるのか、よく考える。
何にもならないのである。死んだって変わらないのだ。
まあ、わたしが死んだとして、兄弟と何人かの知人は悲しむかもしれない。それだけの話だ。さらに言えば、死んでしまえばわたしは誰かが自分の死を悲しんだり、喜んだりする人がいると知覚できない。つまり、わたしにとってわたしの死で悲しむ人間は誰一人としていないのである。残された人は違うのかもしれないが、それは残った人間の勝手で、わたしはわたしの勝手を通す。いつ死んだってわたしの死を悲しむ人はいない。
ほしいもの、もう少しよく考えておこうと思う。
必要ないものを手元に置かない。これのせいでなにがほしいのかわからなくなったんだと思う。いつ死ぬのかわからないってことは手元の物を最小限にしておいた方がいいということ。モノで溢れた部屋の人や、ブランド物で固めていないと不安な人は、さみしがしやか、自分に自信のないよわむしさんだよ。でも、本当はそうやって自分の足りないと思う部分を適切に補っていける人の方がきっと生きやすいんだと思う。野ざらしのより、隠れる場所があった方がいいし、生身が怖いから盾を装備するわけだしね。
わたしは何がほしいのかな。
少し前まではおにいちゃんがほしいと思ってたけど、それも要らなくなっちゃったし、本当に何がほしいのかわからないんだよね。要らないもののことならわかる。
あれだけ言ってるのにキレートレモンが全然減らなくて困ってる。
糸をつむぐグレートヒェン。
あぐれ