正しさについて
結局のところ、その人の主観と置かれている状況によると思う。
正しさってなんなのか、たぶん正解はない。矛盾する気がするけど、正しさの絶対的な正解はない。
友人の結婚式に行った。
それはそれは華やかで新郎新婦はしあわせそうで、客人にも配慮され尽くした端的に言えば最高の式だった。心の底からおめでとうと言った。
結婚式はよい。
その結婚式の参加者何人かで集まる機会があった。
結婚式ハイになっている独身の知人は
「絶対に結婚式には両親を呼んで自分の晴れ姿見てもらうのが一番の親孝行だよね」
と連呼していた。
一般的に正しい感情だし、正しい価値観だとも思った。お酒も入っていたので聞き流していた。わたしには呼べる両親がいない。
その場には、鬼籍に入ってしまい片親の子もいた。どんな気持ちで聞いていたのか、少し気になった。式後ハイとはいえ、少し気を遣えとも思った。その子には両親を呼ぶという選択肢がない。こんなことを考えている自分はいやな人間だろうか、何を考えても最悪の気分だった。
その後、ハイになった知人とサシで食事をする機会があった。
ハイなテンションはそのままだった。
「あぐれも結婚式には両親呼んでさ、仲直りしたらいいじゃない?」
「花嫁姿見せてあげなよ、親孝行なんだからさ」
この調子でずっと続いた。はっきり言ってメシがまずかった。この日からハイな知人は友人ではなくなった。
ハイになっているとはいえ、我が家の関係性に口を出されるほどのことだろうか。一応、その子のことを信用して今まで親にされたことを相談したこともあった。当時は話をよく聞いてくれた。涙を流して「許せない」とまで言ってくれたこともあった。別に同情されたいわけではなかったし、自身を正当化したいわけでもなかったが、味方のような立ち位置でいてくれることはうれしかった。
もちろん、先のことはわからない。10年15年経てば、わたしと両親もまた違ったか変わり方ができるかもしれないし、今と変わらないかもしれない。いつだって予定は未定である。
ただ、ハイな友人の「あるべき結婚式論」を賜っているときのわたしには「これからのことなんてわからないからね」と言えるほどの余裕はなかった。実家暮らしのお前とは違うんだよ、1回も理不尽に殴られたことのないお前とは違うんだよ、朝から晩まで酒浸りのゴミみたいな人間を式に呼んでぶっ壊されたら責任取ってくれんのかよ、等々まあ考えられる限りの汚い言葉を頭の中に浮かべては消し、浮かべては消した。
「そんなに言うなら両親交換してよ」
笑顔で知人に提案した。
知人の表情が固まったのがわかった。
そのときようやくわかったことだか、人間はしあわせお花畑な頭になってしまうと著しく想像力を欠いてしまう生き物らしい。
この知人も例に漏れずそうなっていただけだったようだ。
しかし、言われたことが戻ることはない。わたしは相当イラついていた。この知人の正しさは理解できる、意味もわかる。ただ、残念ながらわたしに当て嵌めることが難しい事例だったことも少しは想像してほしかった。結局は持たざる者のクレーマーまがいの願望である。
世の中の多数の人間は
「結婚式に両親を呼び、晴れ姿を見せることが親孝行」
という事柄に対して概ね賛成だろう。
世間の正しさを体現しているような言葉だと思う。
わたしからも異論はない。
個々人に当て嵌るかと問われると、途端に状況は変わる。
さきほどのわたしと知人のやり取りで漠然とわかっていただけたなら幸いである。
わたしは持たざる者なので、所詮世間とはズレてしまっていても、わたしなりの正しさで世間との擦り合わせを繰り返していくしかない。これはそういう家庭に生まれ育ったこと、疎遠でいる選択をしたこと、全部わたしの決めたことなのでわたしが責任を持って勝手に対処していく。
お前らの正しさなんて知ったことか。
これはたまに思うこと。
ゴリゴリの価値観が混ざった正しさほど面倒なものはない。
電車の中で妊婦や体調の悪そうな人に席を譲る。
道のわからなさそうな白杖を持っている人に話しかける。
落し物があったら最寄の交番に届ける。
その程度の正しさでゆるく生きていきたい。
まあ、この正しさも人によっては「電車賃は同じだから席を譲る必要はない」等々噛み付いてくる輩はいるものの、そんな低俗な人種は関わらないに限るのである。
なんと言っても時間は有限。何に時間を割くべきか、誰に時間を割くべきか、それでその日の、その人の、人生の密度が変わってきてしまう。
人生の密度。
久しぶりにこの表現を使った。
密度の基準に正しさはない。
自分の信じた正しさが積み重なってその密度を形成していく。
とても曖昧で所有者によっていびつにも、綺麗に整列させた密度にもすることができる。
各々の正しさを箱に詰めてパンドラを作ってみたい。開けたらどんな不幸な正しさが飛び散り、どんな希望のある正しさが残るのか、少し気になる。
今のところわたしの人生の密度はいいもの、わるいもの、かなしいこと、うれしいこと、絶望したこと、つらいこと、泣きたいこと、そんな要素ばかりでちぐはぐで濃く構成されていると思う。
あとで気が向いた時に振り返って「ああ、綺麗だったなあ」と思えるようにしておきたい。
今のところ、過去を振り返って後悔することは無い。
いつでもしあわせだった。
もちろんいまもしあわせだと思う。
せっかく恋人も仕事もない状況なんだし、
今くらいのタイミングで死んでしまった方が
しあわせなのかもしれないよね。
皮肉ではなく、心の底からそう思う。
変なしがらみがない分、選択するには易いときだと思う。
当面はまったくするつもりないんですけどね。
死ぬ死ぬ言い出すと、大抵生活が荒みがちになるし、思考も投げやりになる。
各々の形で正しさを行使することに関して、わたしからは何も言及しないしできない。
その人がそうしたいと思った決断の末そうなったのなら、それはその人の正しさの形だと思う。外野がガタガタいうことではない。
何度も言うけど、わたしはおだやかに過ごしたい。
それだけだよ。
わたしのほしいおだやかさを手に入れるためには、またゆっくり労働に戻らなければならないし、投薬も続けなければならない。
おだやかな生活を維持するための現実はあまりおだやかではない。相反するが仕方がないのだと思う。どちらかのみで成立するのであれば、わたしはそれをとっくに実践しているはずだ。
正しさとおだやかな生活は合致するものなのだろうか。
合わなかったとして、おだやかな生活をやめるつもりはないし、また正しさとの擦り合わせをし続けるだけなんだろうな。
レモネードの1杯でもあれば、
それはもうおだやかな生活の第一歩だよ。
ぐれないうちにレモネード。
あぐれ