保険に入れないの話
2018年7月の下書きです。
診断名は当時が双極性障害である。おそらく今も変わらないだろう。
いわゆる躁うつ病というものである。
診断名が変わったのは確か今年に入ってから。主治医が「障害年金の申請をしてみてはどうか」という提案をしてくれたため(相当珍しいらしい)、年金やら何やらを申請するに至った。正直かなり屈辱的な気分にもなったし、過去のことは思い出したくもないし、そこまで社会福祉に頼って生きなければならないのか?という迷いもあった。
使えるものは使ってしまえ、という結論に至って現在のわたしがある。
実際、自分でも躁うつだと思う。というより、ラピッドすぎるくらいのラピッドサイクラーだと思う。自分の感情と行動についていけないことが多々ある。
楽しく飛び降りたい。そんな気持ちによくなる。躁のときはいつでも最高でハッピーで最低で死に近い。
最高でハッピーでも病識だけは持っていたい。
ただ、自分のためだけに通院する意味はあるのだろうか。服薬で躁をコントロールできれば、社会的には益になるが(正確には迷惑をかけづらくなるが)、そもそもわたしは社会の益のために定期的に通院服薬するのを確定で一生行う必要がある存在なのか。
どうしようもない悩みは尽きない。
薬も増えた。
気分安定薬が3種類
眠剤2種類
抗不安剤1種類
副作用止め2種類
寝る前が多い。
そんなこんなでわたしもメンヘラの例に漏れず寝る前の健忘的な時間は大抵何かしら健忘的に過ごしているがなんとほぼ保険のパンフレットを請求している。
健全かつ意識明瞭なときの打撃の大きいものである。
告知義務の関係で生命保険はもちろん入れず、緩和保険のようなものにも入れず、養老保険だか入院保険だか就労保障保険だかまあその類にも全く入れない。ごみである。
現代の河原乞食はこんな感じであろう。
正味な話、つかれたので医者か看護師と付き合って存分に血を抜いて死にたい。
いつだって瀉血は全ての病から救ってくれる。
中世の医学が証明している、生きる体力のない人間は治療行為に耐えられず死んでいくのである。死が救いか否か、わたしは特にどちらでもよいが、手軽で衛生的な死に方だと思う。死ねば通院と服薬から解放されるし、治ればそれはそれでよし。
双極は治らないため、死ぬか薬を飲むかしかない。
迷惑をかけてもよければ薬をやめればいいものの、結局脳を酷使すればするほど死は近くなる上にわたしが疲れる。
躁のときの爽快感や全能感の代償が大きすぎる。いい加減につかれた。
自分の血は汚いから他人に処理してほしい。
特に天国か極楽かもしくは地獄かそんなところがあれば暇つぶしにでも見学したい。死んだら無であると思う。
死んだ金魚を見るたびに生者にとって死に救いはないが、死者にとっての救いがあるように感じる。
伝わらなければそれでよい。
そんなところで。
ヒステリー球。