コルセットの話
再燃しつつある。
コルセットとは
コルセット(英: corset)は、女性用ファウンデーションの一種で、近代から現代にかけて欧州大陸で一般に使用された。胸部下部よりウェストにかけてのラインを補正する役割を持ち、ヒップの豊かさの強調と対比的に、胴の部分を細く見せた。イギリスでは、コルセットとほぼ同じ目的の補正下着としてステイズ(英: stays)があった。重層的な構造を持っていたので、ヨーロッパ北部では保温目的でも着用された。20世紀半ば以降は、ファウンデーションの素材の進化とファッションの方向性の変化でコルセットは廃れ、今日では、医療・運動補助用や趣味、一部の民族衣装を着用する際の装身を目的として使用される。
(wikiより引用)
わたしは15,6のときからコルセットが好きで当時の自分にとって高額な代物であったが、ひとつ手にしたときから虜になった。
装着して締め付けられる肋骨の感覚
誰かに抱きしめられているような錯覚
身体の自由が奪われる恍惚感
こんなところがコルセットのよさであった。
無論、フルクローズを目指して身体を綺麗に見せたいという部分がなかったわけでもない。
有り得ない腹部の細さ、それに憧れてもいた。肋骨を抜くことさえ考えた。
最近はまたコルセットを着ける日が増えた。
この馬鹿みたいな暑さにも関わらず、である。
理由はいくつかある。
人恋しいようなときに着けるとなんとなく落ち着く。
半分自傷の代わりに締める。
その他もろもろ、、、
まあ、コルセットをしていると嘔吐しづらいというのもある。
最近はストレスに耐えかねてしょっちゅう嘔吐しては、顔面痣だらけ、喉の痛みを引きずりながら過ごしていた。
嘔吐を考えれば、コルセットしておいた方が幾分か健全であろう。
本来の使用目的と大きく外れている気もしなくもないが、そんなものはこの世に数えられないほどある。
責めたければどうぞ誤った認知と歪んだ感性のわたしとそれを形作った両親と環境を責めてくれ。
こんなものでさみしさを紛らわし続ける限りは永遠にひとりで過ごすことがお似合いなのだろう。
まあ、そんなところで。
まるまるマリルリ。
生きていますよの話
台風が来るらしい。
そんなことよりも前回からだいぶ期間が空いてしまった。とりあえず人並みの生活は出来ているため、ご心配なく。
ここのところは、諸事情あって朝晩朝晩疲弊気味で帰宅したら即書類をまとめて、次の日の準備。
毎日この繰り返しであった。
というか、まだこの日々が続く。
そんなことより、理解ある方から自転車を頂いた。
わたしが自転車を持つのはかれこれもう13年振りくらいになる。何せ当時は自転車を乗ることが禁止されていたため、相当のブランクである。
ちなみに乗ってみたが、もちろんペーパードライバ ー的な運転技術となってしまった。
技術は使い続けなければ鈍るものなのだと痛感した。
練習が必要なのは自転車でも何でも同じである。
おそらく次の更新は今月後半か最終週あたりだと思う。
今回はそんなところで。
まるまるスヌーピー!
気分安定薬の話
血痰の話
慣れない生活が続き、生まれて初めて血痰が出た。
初めは面白がっていたものの、熱は上がりに上がり、最終的には39.6度。
インフルエンザを疑うも、正直外出する気力がない。そもそもインフルだったら、なんの薬をもらおうとも抜本的な解決にならないのは存じ上げておりまして、熱が出るまま好きにさせておくつもりだった。これが4/30の判断である。
結果として4/4まで39度台の熱は長引き、ほぼ扁桃炎であることが確定、致し方なく救急病院に駆け込み適当極まる受診の末、自宅に帰ってきたという次第。
平成も令和も扁桃炎の熱の中で勝手にどうこうなってしまった。
正味、わたしにはどうでもいい話で、今は少しばかりやらねばならない手続きが重なりすぎていて気が重い。
まあ、扁桃炎にならなければ日々の健康がどれほどありがたいか実感できなかったというのまた皮肉なものだろう。
気分安定薬、導眠剤、睡眠薬、副作用防止薬、頓服、解熱剤、鎮痛剤 合計で何錠あるのか数えるのも億劫である。
健康な方々は薬を飲まないというだけである程度の幸福なのだということを知るきっかけになってくれるとうれしい。
そんなところで。
迷いどころ。
平和って言葉がなんか懐かしく聞こえないかの話
今は昔の話である。
まあ、以前の記事にも書いたであろうが高校の時あたりで聴くとボロ泣きしていた曲である。
親は当然のごとく子を愛し、子もまた親を敬い感謝する。
なんともぬるく型通りでつまらぬ発想である。
こんな斜に構えた思考も認知の歪みゆえか。
認知の歪みか、何一つ治る見通しは立たず、カウンセリングでも受ければ変わるか?
変わらないだろう。
何も変わらないのである。幼少期からの刷り込み、脳の奥深くまで植え付けられた他人への不信感、特に男性への恐怖と大人への失望。
変わりたいのか、変われないのか、自身の意思はもはや分からない。
理解を深めることはすなわち自身の思考を縛ることであり、思考停止はもはや人間としての死と相違ないであろう。
夜の思考はあまりよくない。
今夜は青色。
百合の花咲くの話
タイトルは全くもって関係ない。
特に思い付かなかったので書いたというだけである。
早いもので今年度ももうすぐ終わるらしい。
流れる季節の真ん中で…というところであろうか、日付が違った。
最近はといえば、相変わらず労働に身を費やし疲弊している。
疲弊しているとは言うものの、存外に気力はあるように感じる。無論、感じるだけで正味な話、身体的な限界はそこそこに近いように思う。
気力があるように感じ始めたのも昨日からで、理由は単純に1ヶ月ぶりに心療内科に通えたというだけで状況は何一つ変わらない。
ただ、少なくとも手持ちの眠剤がないゆえの不安や頓服がないゆえの焦燥感は減った部分はある。
薬がないだけでこれだけ安定しないというのも困りもので、これが半ば一生続くのかと思うと耐えられるか否か微妙なところであり、消耗した脳は戻らないという事実から目を背けて暮らすしかないのが現実としてのしかかってくる。
以前書いたようにも思うが、そもそも双極(以前の診断はうつであったが)は完治とは表現せず、寛解という言葉を使う。症状が落ち着いただけで再燃の可能性が高いため、完治とは表現できないらしい。
躁のときに勢いに任せて飛び降りるもよし、抑うつのときに気力を振り絞って首を吊るもよし、ああ、ただ首吊りは以前に失敗したので飛び降りるか飛び込むかのいずれかがいいのかもしれない。
他人の迷惑というのは重々承知で何回でも轢き殺してくれて構わない。
いちばん効率的なのはこういう類の精神疾患持ちを社会保障費を圧迫している順に大学病院や製薬会社に売り飛ばして検体にするか、健常かつ積極的な経済活動をしている臓器移植待ちの人に内臓丸々提供すると無駄がなく、理想的な循環型社会の実現が目指せるのではないかと思う。まあ、このあたりは小学生の夏課題のノリで書いたが実際にそう考えているのだから致し方ない。
とかく双極、統失、精神疾患ではないが社会に適応できない程度の発達障害あたりも潰してしまって構わないだろう。
このあたりは遺伝もすれば、そもそも完治の見込みがない。生きてるだけで害をなすと言えば言い過ぎなのかもしれないものの、正直生きている意味はほぼほぼないと思う。
生物としての多様性に脳の疾患は不要であるというのが持論だからだ。サヴァンや何かを想像する人たちは些か夢を見すぎだろう。健常者でさえ、使えないゴミクズがどれだけいるかわかっているのか。況や障害者をや、である。
あまり書くと障害児を天使と呼ぶ類の盲に袋叩きに遭いそうなのでこの辺にしておくか。
しかし、健常者が希死念慮を持たず日々暮らしていると聞いて信じられない。
瞬間的な絶望から死を考えても、健常者の脳はこういう作りにはなっていないらしく、生に対して前向きな人間というのはもはや別種の生物である。
ここ数日は自死を考えるというより、生きずに済む方法を考えることが多かった。イコールのようだが、自身の中では異なる問題なのであまり深くは追求しないでいただきたい。
死ぬのも面倒な程度には肉体が疲弊していたというのが正直なところだ。労働に身を費やすのは疲弊する反面、正常な思考を鈍らせ感覚を劣化させるという意味では自殺の危険性が低くなるような感覚があり、あながち悪くないのではないかと思えてしまうあたり、「健常な人間」としては終わりが近いようである。
健常か否か、という論もそれぞれあるのだろうが主治医からは「慢性疾患ゆえに生涯に渡る投薬をある程度覚悟しておくように」との金言を頂いているため、覚悟のないわたしにとっては楽な死に方がないかを探す理由にしかならなず、余計に人生に対して絶望せざるを得ない。
久々で書きすぎたか、こんなところで。
今日は紺色。