おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

百合の花咲くの話

タイトルは全くもって関係ない。
特に思い付かなかったので書いたというだけである。




早いもので今年度ももうすぐ終わるらしい。
流れる季節の真ん中で…というところであろうか、日付が違った。




最近はといえば、相変わらず労働に身を費やし疲弊している。
疲弊しているとは言うものの、存外に気力はあるように感じる。無論、感じるだけで正味な話、身体的な限界はそこそこに近いように思う。

気力があるように感じ始めたのも昨日からで、理由は単純に1ヶ月ぶりに心療内科に通えたというだけで状況は何一つ変わらない。
ただ、少なくとも手持ちの眠剤がないゆえの不安や頓服がないゆえの焦燥感は減った部分はある。
薬がないだけでこれだけ安定しないというのも困りもので、これが半ば一生続くのかと思うと耐えられるか否か微妙なところであり、消耗した脳は戻らないという事実から目を背けて暮らすしかないのが現実としてのしかかってくる。

以前書いたようにも思うが、そもそも双極(以前の診断はうつであったが)は完治とは表現せず、寛解という言葉を使う。症状が落ち着いただけで再燃の可能性が高いため、完治とは表現できないらしい。
躁のときに勢いに任せて飛び降りるもよし、抑うつのときに気力を振り絞って首を吊るもよし、ああ、ただ首吊りは以前に失敗したので飛び降りるか飛び込むかのいずれかがいいのかもしれない。
他人の迷惑というのは重々承知で何回でも轢き殺してくれて構わない。
いちばん効率的なのはこういう類の精神疾患持ちを社会保障費を圧迫している順に大学病院や製薬会社に売り飛ばして検体にするか、健常かつ積極的な経済活動をしている臓器移植待ちの人に内臓丸々提供すると無駄がなく、理想的な循環型社会の実現が目指せるのではないかと思う。まあ、このあたりは小学生の夏課題のノリで書いたが実際にそう考えているのだから致し方ない。

とかく双極、統失、精神疾患ではないが社会に適応できない程度の発達障害あたりも潰してしまって構わないだろう。
このあたりは遺伝もすれば、そもそも完治の見込みがない。生きてるだけで害をなすと言えば言い過ぎなのかもしれないものの、正直生きている意味はほぼほぼないと思う。
生物としての多様性に脳の疾患は不要であるというのが持論だからだ。サヴァンや何かを想像する人たちは些か夢を見すぎだろう。健常者でさえ、使えないゴミクズがどれだけいるかわかっているのか。況や障害者をや、である。
あまり書くと障害児を天使と呼ぶ類の盲に袋叩きに遭いそうなのでこの辺にしておくか。

しかし、健常者が希死念慮を持たず日々暮らしていると聞いて信じられない。
瞬間的な絶望から死を考えても、健常者の脳はこういう作りにはなっていないらしく、生に対して前向きな人間というのはもはや別種の生物である。
ここ数日は自死を考えるというより、生きずに済む方法を考えることが多かった。イコールのようだが、自身の中では異なる問題なのであまり深くは追求しないでいただきたい。
死ぬのも面倒な程度には肉体が疲弊していたというのが正直なところだ。労働に身を費やすのは疲弊する反面、正常な思考を鈍らせ感覚を劣化させるという意味では自殺の危険性が低くなるような感覚があり、あながち悪くないのではないかと思えてしまうあたり、「健常な人間」としては終わりが近いようである。

健常か否か、という論もそれぞれあるのだろうが主治医からは「慢性疾患ゆえに生涯に渡る投薬をある程度覚悟しておくように」との金言を頂いているため、覚悟のないわたしにとっては楽な死に方がないかを探す理由にしかならなず、余計に人生に対して絶望せざるを得ない。




久々で書きすぎたか、こんなところで。




今日は紺色。