おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

就寝前のまどろみ気味の話

今日は珍しく寝る前に落ち着いている。今日とは言いつつ、実際の投稿日時との差があるのは寝る前だけに目を瞑って頂きたい。

 

 

珍しくマイスリーなし、サイレースを早めの服用で睡眠時間延長チャレンジをしようと思っている。まあ、中途覚醒なしで5時間眠れれば万々歳というところ。

 

 

 

さて、前置きも手短に掲題の件に戻る。

わたしは就寝前の意識が曖昧なまどろみもどきの時間がすきだ。ブログを書いている時点でまどろんでいるのか、若干の疑問はあるものの、おそらくいつも以上に支離滅裂な文章になると思う。このあたりはメンヘラのブログということで勘弁していただきたい。勘弁していただきたいし、眠剤を飲んでから寝るまでのことは割と忘れ気味である。健忘はよくあることだし、まあそういうものと思って読み流してほしい。

 

 

寝る前に不安や余計な思考が頭を巡らないということは、それなりに幸福である。言わずもがなわたしの幸福閾値は低めなので、この程度でも幸福を享受できる。なんともコスパのいい人生である。

 

 

 

雨風を凌げる屋内で寝られること、就寝にあたって外部から危害を加えられる可能性がほぼないこと、これだけで全てが幸福と断ずるのに一切の躊躇はない。

ただ、この思考が行き過ぎると、

ああ、わたしの人生は全てが幸福である今のあたりで区切りをつけてしまえばいい

という結論に至りかねないので、その前に寝るが吉である。

 

毎度のことながら就寝でとりあえずの思考の逃げが出来ることは無職の特権である。この際、早めに寝るためにマイスリー追加するか。ODではないので悪しからず、ご心配もなきよう。

 

 

 

特に意味なく寝る前に中国語だけの音声を流しているが、拼音と漢字と意味が一致するものが増えてきてうれしい。わからないものはほぼ寝る前のヒーリング音楽と化している。ネイティブの会話は少しこわい雰囲気があるものの、教材的な中国語はまるで歌を聴いているような不思議な感覚がある。四声のせいだというのは明白だが、英語のスピーチ的な勢いのある言語に比べて就寝前に合っているのではないかと思う。個人の感想なので、あくまでご参考までに。  

 

 

 

寝る前にぼんやりと考えるのは、もう一人暮らしも10年近くになるのでこの状況に慣れてしまっているものの、隣に誰か信頼のおける人がいたら、もう少し寝る前が楽しみになるのではないか、ということである。病気の関係上、ほぼほぼ諦めてしまっていてもう2度とそんなことはないのではないかと思うものの、いつか穏やかな生活を共に送りたいと思える人、思ってくれる人ができたらこの上ないしあわせはないのではないかと思う。

 

 

 

正直言って、一人暮らしには飽きた。寝る前のぼんやりした意識はすきでも、これがあと何十年か死ぬまでひとりの状態が続くのかと思うと、それはあまり考えたくない。

ということは、とりあえず今日はさっさと寝るに限るということである。

 

 

 

健全な精神は適切な睡眠時間の確保から。

 

 

 

ぐれた思考をする前によく寝て健常に近付こうね。

 

 

 

 

 

ぐるぐるレモンティー。

あぐれ

二度寝チャレンジの話

主治医が変わって夜は抗うつ剤と入眠剤のみの処方になった。それは構わないが、もともと4時間5時間寝られていたところが3時間になってしまった。目覚まし時計なんて使わなくても勝手に目が覚めるのである。携帯の時刻を確認してあまり時間が経っていないことに落胆する。毎朝が絶望の起床である。

 

 

そんなわけで昨日から二度寝チャレンジを始めた。2日目の今日、挫折した。

正確に言えば、挫折したというより忘れて散歩に出掛けてしまった。5000歩強、4km弱の散歩であるが、まあそれだけ歩けば目も覚める。帰ってきてから二度寝チャレンジのことを思い出して再び絶望した。糸色望だったらノータイムで首を吊っているところだろう。わたしはぐれた。

 

 

明日は二度寝リベンジをしようと思うが、朝から人と会う予定があるので今夜何時に寝るか迷いどころである。24時に寝て、3時か4時前に起きて、二度寝で6時まで再就寝するのが理想だ。

 

 

よく「昼に活動していないから夜眠れないのでは?」と言われるが、ここ1ヶ月くらいは毎日最低10kmは歩いている。多い日で15km、それ以上だとたぶん散歩が嫌いになるのでやらない。てれんこてれんこ歩いてるわけではなく、昼はともかく朝晩はそれなりにわしわし歩く。週に3回か4回はジムにも行っている。自分がつらくならない程度の予定を入れてそれも消化するようにしている。

確かに社会人と比較すれば断然疲労は少ないだろう。ただ、それは精神的な部分の差であって、肉体的にはおそらくわたしの方が体を休めるべき活動量なのではないかと思う。脳労働が足りないんだろうか、中国語をへらへら聞いたり書いたりするだけだとだめなのか。睡眠時間の伸ばし方も中国語もまったくわからない。何かしら別の勉強系に手を出すべきなんだろうか、次の仕事に活かせることとなると心理もどきの勉強になってくるはずである。転職も業界もこれからの人生も睡眠時間もいつだって予定は未定だ。

睡眠が少ないせいで昼のパフォーマンスが下がっているのかもわからない。ただ、下がっていたとしてそれが本当に短眠のせいなのか、病気で脳みそが低速になっているためなのか、もともとのわたしの処理能力の問題なのか、もしくは複合的なのか、そのあたりも不明である。ここらへんは原因がはっきりしたところで、自分の落ち込む姿が容易に想像できるのであまり考えないようにしてる。人生に飽きないコツは、目を背けて困らない事柄に対して真面目に対応しないことである。はっきり言って、大真面目に「なぜ眠れないのか」「どうするべきなのか」「これからも眠れなかったら」云々考えたところで状況は好転しない。他人に迷惑をかけるわけでもなし、睡眠に関しては主治医と相談しつつ、勝手にどうにかするつもりだ。

 

 

まあ、睡眠が少なめなのは今に始まったことでもないので、忘れていない日は毎日二度寝チャレンジして合計睡眠5時間を目指す。最終的には連続で5時間以上寝ることが目標だが、中期系の眠剤を処方されない限りはしばらく難しいだろう。

 

 

 

 

こう見えて夕方くらいからカフェインを摂らないとか、寝る直前にものを食べないとかそういう努力はしているのよね。

 

 

 

 

ぐれ気味のaggressive。

あぐれ

こわいものの話

一人暮らしをし始めてから、ホラー映画を観なくなった。怪談の類も一人暮らしネタのものは絶対に読まない。ドアや襖を半開きにしない。蛇口をきちんと締める。

 

幽霊やら魑魅魍魎の類を信じているわけではないが、こわいものはこわい。ドアや襖を半開きにしていると、なんとなく他人がそちらにいたらこわいのできちんと閉める。蛇口から水の落ちる音がすると、これもなんとなくこわいのできちんと締める。恐怖はお行儀のよさを育むのである。

おばけや実在しないものではなく、いるものでこわいのはやはり人間と黒いアレである。人間の方は個別の対処が必要とされる場合が多いため、一旦置いておくとして、黒いアレは部屋をきれいに保つことで概ね誘引を抑えられる。ゴミは指定日に必ず出す。使った食器をそのままにせず早めに洗う。玄関や窓の隙間には殺虫剤を撒いておく。恐怖は小綺麗な部屋を保つのに一役買ってくれる。

 

 

 

実際に起きたこわかった出来事であるが、学生のときにドアポストのついたアパートに住んでいた。ドアポストの受け取り皿のようなものが外れてしまったので、そのままにしておいたが、ある日の夕方にふと玄関の方へ目をやると、人間の目が一対並んでいた。こわくて声が出なかった。目を合わせなかったことにしてキッチンへ行き、包丁を手にゆっくり玄関へ向かった。まだ目はあった。視線を逸らさず、手にした包丁がよく見えるように近付くと、目はかわいい叫び声を上げて逃げていった。

小学生のいたずらだったのだ。しかし、本当にこわかった。おそらく小学生もこわかっただろうが、他人の家を勝手に覗いているのだから包丁で脅される覚悟くらいはして頂きたいものである。私生活を他人に無断で覗かれるというのは気持ちのいいことではない。以来、わたしのドアポストに目が並ぶことはなくなった。

 

 

 

もうひとつある。これは3年前くらいの話だ。当時のわたしはジムによく通っていた。くるぶし丈の靴下を頻繁に洗濯し、1階に住んでいたがわたしは外に干していた。だんだんと複数ある靴下の片方がなくなるということに気付いた。最初の頃は「ジムに忘れてきた   」「洗濯機から取り忘れた」「干している間に飛ばされてしまった」など適当な理由をつけてなくなったこと自体はあまり考えないようにしていた。そもそも小さな靴下である。ひとつかふたつはどこかに行ってしまうかもしれない。しかしながら、片方だけの靴下が5足を超えたあたりで確実におかしいと思うようになった。ジムの帰りに確認し、洗濯機を回した後にも確認した。洗濯物を干すときにも確認した。取り込むときになって減っていることがわかった。人間の仕業である。ちなみに面倒でタオルで囲んで下着も外に干していたが、1度も盗られたことはない。まあ、またこどものいたずらか何かだろう、そう思ってある朝カーテンを開けた。目の前には空だったはずの洗濯ピンチに今までなくなったくるぶし丈の靴下がずらっと並んでいた。こわすぎて息が詰まりそうだった。何者か(おそらく同一人物)がコツコツとわたしの靴下を集め、何をしたのか何もしてないのかわからない状態で夜中にわたしの洗濯ピンチに戻している姿を想像すると気持ちが悪くなった。もし、ストーカーがいたらこんな気分が続くのだろう。

カーテンを閉め、不動産屋に解約の連絡をし、1ヶ月以内に別の部屋に引越した。

わたしからのお願いはただひとつである。盗んでもいいから、返さないでくれ。こわいので。

 

 

 

 

まんじゅうこわい的な話にしようかと思ったが、ふたつめの話にオチはない。誰がやったのかも知らないし、今となってはもう知りたくもない。とにかく人間の気持ち悪さを煮詰めて無理矢理口に詰め込まれた気分になった。一人暮らしの飽きが加速したのも、正直この件に一因があるように思う。同居人がいればまだ少しは気分が楽だったかもしれない。所詮はたらればである。

 

 

 

本当にこわいものは名糖のレモネード。

 

 

 

 

agriculture。

あぐれ

化粧品の話

この前、女の子と会ったときに化粧品の話になった。

 

 

わたしは美容関係に興味関心があまりないため、化粧品を滅多に買わない。洗顔は水か固形石鹸、ファンデーションや下地は買ったことがないし、アイシャドウやアイブロウ、チークあたりはたぶん2年くらい買ってない。定期的に買うのはつけまつげとその糊くらいだが、それも最近はまつエクのおかげで要らなくなりつつある。化粧水や乳液の類は今はたまたま皮膚科にかかっているので処方されたローション類を使っているが、普段は洗顔後にハトムギ化粧水かニベアの青缶を塗っておしまいである。エステのお姉さんたちが聞いたら、こぞってわたしのスキンケア方法を訂正し、よりよい基礎化粧品を勧めてくるだろう。その手には乗らない。

 

ファンデーションや下地を使わない理由は、いくつかある。

まず、面倒だ。ふたつめに肌が詰まる気がする。そして、最後に隠さなきゃいけないほど、肌が荒れていない。そこらへんのお姉さま方の前で話したら、ぶっ飛ばされても文句は言えないだろう。

一応、会社勤めをしていたころは日焼け止めにパウダーをはたいていた。眉ティントで足りない眉毛を書き足し、チークとアイシャドウを適当に入れて、正味10分あれば顔が完成する。なんとも楽ちんである。

 

 

 

一緒に話していた女の子は、通っているエステで購入した基礎化粧品を使い、たまにデパコスでアイシャドウなどを買い足し、クレンジングの類も丁寧に行っているとのことであった。えらい。女性とはこうあるべき、という理想を思い知らされた気分になった。惨めな気持ちというより、世の中の女性たちはそうやって女性性や自尊心を保つための努力を怠らないのだというところに感心した。その人たちの手入れや化粧が芸術、美術と表現するなら、せいぜいわたしは図画工作である。まあ、わたしはしばらくやる気がないので他人事だ。

たくさんやりたい人はやればいいし、化粧が好きな人は好きな化粧をすればいいし、他人が不快にならないような顔を作って外に出ていればなんだっていいと思う。化粧の仕方や時間に関して他人がその人のことをとやかく言うのはお門違いだ。美意識だって人それぞれ、かけられる時間や金額の多寡も人それぞれ。このあたりは自己擁護のために書いた。   

 

 

 

ただ、女の子と化粧品の話をするのは楽しい。何より女の子がかわいい。キャバクラにハマるおじさんの気持ちも少しはわかるというものである。女の子が笑顔で話をし、話を聞いてくれるというのはそれだけで価値がある。わたしは女の子ではなく、女性という年齢になってしまったので彼女らと比較すると逓減する価値を食い止めるべく、基礎化粧品や化粧の仕方を見直すべきなのだろうが、ちやほやしてくれるおじさんたちがいるわけでもないので、まあよしとする。ただ、これもまたわたしの美意識の低さゆえにちやほやされないのか、ちやほやされないから美意識が低いのか、鶏とたまごだ。

 

 

 

 

いつまでもたまご肌でいたいね。

 

 

 

 

つるつるクレンジング。

あぐれ

起床時間の話

書き始め現在は5時である。

 

 

昨日は長めに眠れたか?と思ったが、就寝が1時間遅かったことに気付いた。1時に寝て5時に起きた。ここのところ睡眠はきっちり4時間である。どうせ働いていないのであればあと6時間は寝たい。

サイレースロヒプノール等の眠剤を出してもらうべきか悩みどころである。もともとあまり長い時間睡眠を取る方ではないが、これは幼少期の不安定な環境のせいなのか体質なのかわからない。中学の頃にはほぼ4時間の睡眠が固定されていた。だいたい、車庫や家の外に追い出しておいて8時間寝ろというのは無理な話だし、父親の気分で叩き起こされ、怒鳴る殴る蹴るが突発的イベントとして発生していたので長く寝るよりも、少ない時間で即起きて物事に対処できる方がいい。

 

思えば、父の睡眠も4時間か5時間かそのあたりだった気がする。まあ、彼の場合は酒で睡眠が浅くなっていただけのようにも思えるが、三環系抗うつ薬バルビツール酸系眠剤が出ていたので、彼も彼なりに悩みがあったのだろう。わたしとしてはそんなことで好き勝手殴られてはたまったものではない。わたしをサンドバッグ代わりにするなというところである。一応、我が家にはきちんとしたサンドバッグも置いてあった。そっちを殴れ蹴れ。ついでにサンドバッグを怒鳴ってもいい。物に当たる人間は最低だが、人を殴る人間は最悪である。

 

 

 

さて、4時間睡眠をどうにかするには、いちいち外に出てさんぽをせずに二度寝の努力をすればいいのだろうか。これもまた悩む。

ただまあ、1日20時間起きてると考えると、何らかの病気になるのも当然か?という感じがしてしまう。そとそも体力には上限があるので起きてる間動き回っていられるわけでもなし、無駄な考え事の時間が増えてしまうだけだからだ。病気だから睡眠が少ないのか、少ないから病気なのか、そのあたりは鶏とたまごだ。

 

とりあえず今日はもう一度寝る方向で。

 

 

二度寝チャレンジ!

 

 

 

ぐるぐるの就寝。

あぐれ

眠れない日にはの話

昼に動いて疲れていて、眠剤を飲み、寝る準備を整え、いざ睡眠へ。

しかし3時間程度で起きてしまう、二度寝できそうな雰囲気はない。

こういう日はもう寝ることに固執しないで、身体と頭を使わないことをするようにしている。まあ、そのうちのひとつが例の遊びであったりするのだが

 

af-doctor.hatenablog.com

まあ、それなりに飽きてきているのも事実である。そもそも一人暮らしに飽きてきているのに睡眠時間が短くても何の得にもならないし、ひとりでできることをわざわざやろうという気にならない。起床時で4時を越えていれば、即断で朝のさんぽに出掛けるが、3時前後となるとさんぽをするかは半々である。いつぞや書いたかもしれないし、これから投稿されるかもしれないが、割と深夜のさんぽは好きである。ただ、それをしていてもよくなることはおそらくないので、基本的には自宅で脳みそを休めるようしているつもりだ。それならばブログを書くなという論は十二分にわかるが、暇なのだから致し方なし。誰がわたしを咎められようか。

 

 

 

ちなみに今日飲んでいたのはマイスリー10mgである。まあ、入眠にしか期待していないので、本人の仕事は十分全うしてくれていると思う。しかし、3時間。あまりに短い。医者に怒られる。主治医は入眠剤以外の睡眠薬を処方から外したが、寝た方が快方に向かいやすいと僅かながらでも考えているのであれば後発の出ている薬の処方を書けばいいのである。少しの手間でわたしの睡眠時間が伸び、無駄な思考をする時間が減る。なんとも健康的なことこの上ない。それが投薬の上で成り立つ虚構だとしても、である。

 

 

 

 

眠れない日には考え事をしがちである。どうせ持てもしない家庭のことなんかを考えたりする。一緒にいるときも眠剤を飲むのだろうか、子どもには隠れて飲むのだろうか、そもそも不具者のわたしを受け入れてくれる人はいるのだろうか、これから何かのきっかけで劇的に症状が改善し、遺伝の心配もないと研究結果が出る日はくるのだろうか、誰かを必要としたり、必要とされるような関係を望んでいいのだろうか。思考は尽きないが、明るい結論が導き出されることはごく稀である。夜中の思考など、その程度のものであり、同じ人間の同じ脳みそでこねくり回す理論が唐突に誰からも反論の余地なく、解決のための具体的内容が示され、かつそれが実現可能なものになったとしたら、わたしは無職をやめてさっさとその脳みそを活かして何らかの仕事にありつくだろう。こうやって似たような結論しか出ないにも関わらず、思考を巡らせているとき、議論する人がいればなーと思う。議論とは書いたが、別に主義主張のぶつけ合いをしたいのではない。相手の考えを少し覗かせてもらって、よさそうなところはわたしとコラージュさせてくれというだけの話である。

いろんな立場や環境の人の視点や意見を聞くのはおもしろいし、いいと思ったこと、悪いと思ったことを自由に取捨選択し、そこからの創意工夫であたかも自分がもともと考えていましたよ、というような顔をしていることが多くあるが、馬鹿が必死に切り貼りしているのだと石を投げずにみまもって欲しい。

 

 

 

もし、こんな風に覚醒が早くて再就寝が難しそうな日でも、隣に誰かいたらそれだけでわたしの無為な時間は救われるのかもしれないと思うと、どうしても早めに安全地帯をお互いに作れる人の存在がほしいと考えずにはいられない。ひとりというのは自由であり、孤独であり、それなりの強さを要求されるものだと思う。わたしは自由も孤独も謳歌したが、要求される強さを提供し続けられる自信がなくなってきてしまった。一人暮らしなどは5年もすれば十分である。あとは人生に飽きないようにお互い穏やかな気持ちで過ごせる相手を見つけ、各々の幸福を追求していくような人生がちょうどいいのだと思う。望みすぎも望まなさすぎもよくない。バランス感覚皆無のわたしだが、過ぎたるは猶及ばざるが如しということばくらいは知っている。自分や相手に求めすぎてはいけない。ただのエゴならまだかわいいが、過ぎた願望や欲求はやがて相手と自分の首を少しずつ締め上げ、身動きが取れなくなるだろう。わたしの両親あたりがその典型である。まあ、子ども同士で結婚してしまったのだから、最初からままごと程度の生活になることは明白であったが、なるほど彼らは見事な茶番を繰り返し、わたしを社会に送り出すというままごとをやりきってみせた。我が親ながら賞賛に値する。

 

 

 

 

そう、眠れない日にはこんなことを考えていればいいのである。眠れるようになってから、眠れるときの悩みができたら悩めばいい。

 

   

 

 

 

 

外の雨音が心地よい。

 

 

 

 

magnet。

あぐれ

意欲低下の話

今日も今日とて精神科に行ってきた。これだけブログに書き散らしている割に他人との会話が難しくなったと感じる。今の主治医はわたしの状況をたずねるだけで特に何も言わない人なので、抑うつがひどいとたぶん何も伝えられなくなる。

正直言うと、こいつとは相性が悪いんじゃないか、と思った。割と今までの主治医は食事の状況や掃除、身の回りのことなどを聞いてくれていたので、考えがまとまらないときははいかいいえで答えるだけでよかったので非常に助かっていた。わからない、これもわたしの甘えなんだろうか。

 

 

さて、意欲低下の話である。

ここのところ食事の量が減ったことを喜んでいたが、どうにも食べる気がしない。人とも会いたくない。化粧ができない。服を選べない。施錠もできないし、風呂に入れない日もある。眠剤を飲んで瞬間的に脳みそが働いているような気になっているときに洗濯の類を片付ける。我が家は置いてあるものが少ないので散らかることがほぼないことが救いである。

抗うつ剤は意欲向上が云々と効果効能を謳っているが、意味があるんだろうか。リタリンでも飲まなきゃ意味がないんじゃないか。飲んだことはないものの、そんな風に思う。

 

ありとあらゆる動きが緩慢で、注意も散漫になりがちである。なんというか、死んだ方がいいのはわかっていても、それすら面倒だ。誰にも関わらないでほしいし、誰からも関わってほしくない。何かをしたいと思えない。今日の予定も午後がつらくて全部キャンセルしてしまった。わたしは何をしてるんだろうか。

 

 

とりあえず、薬が手元にある安心感は手に入れたので、あまり考えないようにしたい。

まあ、何かあったら最悪死ねばいい。

 

 

 

 

おだやかに生きるってどういう感じだったかな。