おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

勤労にいそしむの話

漢字にすると机上の上と同義である。
しなくても同義である。



一丁前に感動するような話題を書いておきながら卒業式は出なかった。
イベントごとには縁がない思考らしい。こればかりは致し方ない。来世があれば来世に期待したいところだが、卒業式の類は基本的に出ないか、別場所で待機する仕組みが人生に組み込まれていそうなのでそのあたりは期待しないでおく。


さて、掲題の通り、いつの間にやら働き始めた。正社員は今のところ飽きているため今回は派遣を選択した。
文字通り、驚くほどぬるい環境である。
全てがぬるい。まだ個人の飲食店のアルバイトの方が厳しいのではないかと思われるぬるさである。

やむを得ない理由で派遣をし続ける人がいるかもしれないが、正直なところあんな働き方していたら脳味噌の端から腐って爪先まで傷んでしまうと思う。
要するに特段続けたいと考える理由のない働き方だということがわかった。わかっただけでも得である。
金をもらって勉強させてくれているわけであるから、この上なく得であることは確かだが、何かの役に立つ技術が得られるわけでもなし、続ける必要がないことだけは確信が持てる。


最近は自粛自粛の大合唱で「どこが自粛だ?声が大きくないか?」という人が増えており、我が家に世間と繋がる媒体が少なくてよかったと思う。
派遣先でも「コロナ感染者が別の支店で」「緊急事態宣言は今度いつまで」云々…口を開けば新型肺炎の話題である。

わたしは能がないため、出勤せざるを得ない日が週に何度かあり、妙齢の女性や初老の男性から「御家族が心配しているかもしれないけど」などという旨の話を振られるが、その際には笑顔で黙る。これが処世術というものである。
これで何か家族の話を広げれば、そこからは嘘八百の大売出しになってしまう。実家がどこ、親はいくつ、最近いつ帰った…大抵の人間は他人の家族など興味もない割に汎用性の高い話題のようで、とにかく本件については笑顔で黙るが今のところ無難な返答であることに違いはない。黙るが返答か否かという論議はまた別のところでお願いしたい。
明日からは五月なのだ。四月馬鹿はそろそろ忘れなければならない。


万が一、感染したとして心配する家族がいるかと言えば、きょうだいは心配するかもしれないし、しないかもしれない。わたしの想像力の及ぶ範囲だと「おそらくそこまで他人に興味がない」あたりが最適解だと思われる。
親やその他の親族については正味な話、どうでもいい。死んだらそれはそれだし、派遣に慶弔休暇はあるのか?という疑問もあるが、愚問である。
まず、わたしは冠婚葬祭に呼ばれない。理由は知ってる人は知っていればいいし、知らない人は気になっておけばいい。気にならないならそれが無論いちばんである。


働くことを拒否して学生でいたものの、学生でいるにはとにかく金がかかった。社会人はいかに金がかからない生き方なのかを学ぶことができた。これはわたし自身が何かの間違いで配偶者ができ、子どもができたときでなければ感じることができなかった感覚のひとつのはずである。
この収穫は相当大きい。とにかく金はかかる。生活するのに金はかかる。勉強するのに金はかかる。資格を取るのに金はかかる。
つまるところ勤労に仕向けようという頭のよい大人たちの邪な思惑を直に目の当たりにしたという学生生活であった。言い換えれば有意義であった。
わたしは再度学生になることで、勤労の楽さを知り、勤労から逃れるべく勤労に励むこととなった。頭のよい大人たちの思う壺であるが、そんな見え透いた魂胆に乗ってやれるほど頭のよい大人たちの教育はうまくはいかなかったわけである。

わたしが類まれなるゆるさの勤労に嫌々勤しんでいる(机上の上)のは、再び学生に舞い戻るための準備でしかない。
義務教育はわたしに敗北した。勤労と納税からとことん逃れてやろうと思っている。
義務を外されると途端に学生生活は楽しくなる。楽しくなるわけではない。正確には自身の選択肢が広がるために自由度が上がったように感じられるだけで所詮は文科省の檻の中であることに変わりはないが、受動的に閉じ込められているのと能動的に檻に入りに行くのとでは、監獄生活もまた異なる視点で活動できるようになるのである。


話が逸れてしまうので、そんなところで。






自粛中のニコライ堂