文字の話
うつでなければ活字を読むのがすきである。
思い返せば小1のとき、祖父に辞書を買い与えられてから毎晩辞書を読んで寝るというのが日課になっていた。
もう少し時間を戻すと、我が家は両親が教育にあまりに興味がないものだったので、絵本の類を読んでもらえたことがなかった。しかしながら、幼稚園かそのあたりで預けられていた児童施設だか学童の未就学児版だかで少し上の子らからひらがなとカタカナを教えてもらっていたのでルビの振ってある本は大概読めた。記憶が間違っていなければ、幼稚園の年中のときである。もちろん時計も読めた。我ながら当時は存外に賢い子であったように思う。
小学生になってからというものの、図書館の使い方を覚え、更には漢和辞典まで強請り買わせ、辞書の引き方のわかるわたしにとって本は格好の暇潰しになった。
とにかくいろんな本を読んだ。小学生のときには子どもが読むような小説の類はあらかた読み漁り、 小説に飽きれば適当な動植物や人体の構造に関する本を手に取った。どれも理科社会の基礎になってくれた。
中学に上がってからは図書館の「あ」から始まる小説家の本を順番に読んでいった。芥川龍之介、赤川次郎、有吉佐和子、池井戸潤、伊坂幸太郎、石田衣良、江國香織、遠藤周作、奥田英朗、川端康成、重松清、太宰治、三島由紀夫、宮部みゆき、他にもたくさんいたように思うが今ぱっと出てくる作者はそんなもんである。お察しの通り、全くもってジャンルも年代も問わなかった。ここぞとばかり、自由に本を読んだ。
あとは戦争や虐殺、紛争に関する本も読み漁った。日本軍が何故負けたのか、開戦までの経緯や戦時中の軍人の手記、特攻隊のこと、ナチスの行ったユダヤ人迫害のこと、古代からの拷問や刑罰の類、クメール・ルージュのこと、チャウシェスクの落とし子、ツチフツ族の紛争、ベトナム戦争、チェルノブイリ原発事故、要するに人間の残虐性や暴力性と多くの人間の死について興味があった。このあたりはおそらく自身が父親によく殴られていたからだろう。そういえば、日本軍の敗戦理由を経済的観点から論じた新書も読んだ。サンクコストという単語をそのとき覚え、以降のわたしは無駄金について「勉強代」と称するようになった。何事も経験ということを理解し始めた頃である。
そして、新聞も毎日読むようになった。政治経済に少しずつ興味関心を持ち始め、近現代の歴史には強くなった。
高校に入ってから、現代文については相変わらず新聞とサラリーマンの好きそうな経済誌、例を挙げれば「東洋経済」「ダイヤモンド」「プレジデント」あたりを好んでよく読んだ。この経済誌というのもなかなかの出費になる上、高校の図書室にもわたしの最寄りの図書館にも置いておらず、隣町の図書館と大学に出入りするようになった。 あの図書館にはいつ行っても最新の経済誌が揃っている上に新聞も何社も揃っていて感動した。高校なんて行かずにしばらくは隣町の図書館と大学通いが続いた。
高校に行かないことに関して、両親からのお咎めはなにひとつなかった。一応、馬鹿ながらに出席日数の計算をし、何なら各科目の教員に模試の結果を叩き付け出席扱いの日を作り、テストは数学ⅡやBあたりで0点を連発したが、模試の結果が加味される謎の制度により、五段階評価のうち3が最低でもついていた。はっきり言って当時のわたしは世の中を舐め腐っていたし、まあ今でもほぼ変わらずに舐め腐っている。
相変わらず本を読み続けたわたしは高1の早い段階で現代文の小説に飽き始め、古文の原文を読むようになった。暇にかまけて品詞分解までしていた。原文で読んだものは、枕草子、源氏物語、宇治拾遺物語、大和物語、水鏡、増鏡、蜻蛉日記、更級日記、伊勢物語、方丈記、土佐日記、とりかえばや物語、竹取物語、今昔物語、好色一代男、世間胸算用、日本永代蔵あたりから、古事記、日本書紀、うつほ、落窪、その他もう思い出せないが、これも中学時代の小説よろしくまあなんでも読んだ。
いちばんつまらなかったのは言わずもがな土佐日記である。「昨日に同じ」のようなことが平然と書いてあり、しかもそれが一日だけではなかった。とんだ手抜きである。まだわたしのブログの方がまともに書いていると思う。
そこそこな面白かったのはとりかえばや物語だったと思う。今でもよく使われる「入れ替わっちゃった!」系の原点がここにある。これを当時書き記した作者を賞賛せずにはいられない。まあ、他人(こと異性)との入れ替わり願望や想像というものは人間にとって普遍的なテーマなのかもしれない。
そんなわけで教科書はおろか、模試でさえ基本的には読んだことのある文章が出てくる問題だらけであったため、古文は向かうところ敵なしであった。調子に乗りまくっていたが、高校内では基本的に国語の順位は1位か1桁番台、県内でも悪くて3桁番台、難しい問題になればなるほど本領が発揮された、というより単純に他のやつらができなくなっていたので、東大模試や早慶実践模試あたりはとにかく楽しく、結果も早めに出てほしいくらいであった。全国の現役生と浪人生で国語はおそらく負けないだろうという自負がある程度には調子に乗っていた。
上位成績者は名前や所属が載るものだが(今は変わったのだろうか)、わたしが全国で20番台でほくほくしていたときの上の奴らの在籍、出身校を見ると、滝、灘、桜蔭、渋幕、その他並み居る有名進学校の猛者たちであった。どうにかこうにか食い込めたのも問題との相性が良かったのもあるが、おそらくは鬼の如く字に対しての執着が為せる技だったのではないかと思う。というのも、わたしは国語の勉強らしい勉強をしたことがないためである。全ては読書量がものを言うのだと思っていたので、国語なんて放っておいても問題なかった。
今となっては同じことを英語で聞かせてやりたいところである。
話を戻す。この模試以外でも基本的に国語と生物、現社に関してはすこぶる結果がよかったため、高校に行かずとも各科目の教員はわたしが勝手に勉強しているものと思ってほめてくれることが多かった。両親に勉強に関して何も言われたことはないものの、ほめられた試しもなかったので、当時の教員連中には感謝している。
ああ、一つ忘れていた。母親や父親からは「ちょっと勉強ができるくらいで調子に乗るな」と「てめえは俺を馬鹿にしてるんだろ」などと罵られたことはあった。既に過去の話であるし、おそらくは彼らなりのコンプレックスがあったのだろう。いくら怒鳴ろうが殴ろうが、脳に障害が起こらない限り、わたしの知識も思考もわたしだけのものである。簡単に誰かに奪われはしないという点で知識を得ることに関して意欲的かつ貪欲だった。
そして古文にも飽き出し、手を出すものは消去法的に勿論漢文である。これは正直、古文よりも楽勝であった。見慣れぬ漢字の意味さえわかってしまえば、あとは余裕の読売新聞社である。
当時は原文(白文と呼んでいたが今でも呼称は変わらないのか)に返り点や送りがなのついた問題が多かったように思うが、全部わたしには必要なかった。白文から直で現代語訳ができたし、友人に求められれば返り点と送りがなをつけた。漢文も古文と同じで年代によって多少の意味の差はあるものの、置き字や基本法則さえわかってしまえば、所詮は中国語の範囲を出ないものである。英語の基礎がわかっていれば、漢字になっているだけ英語よりマシであった。
国語のテストや模試とやらは今でも意味のないものだと思うが、わたしの自己肯定感を上げるのに一役買ってくれていた。駿台予備学校、河合塾、どうもありがとう。
さて、ここまで書いておよそ3000字である。
前編後編に分けるか迷いどころだが、せっかくなのでこのまま書いてしまおう。
大学受験で失敗し、仮面浪人にも失敗したわたしはとりあえず所属大学を4年できっちり卒業し、取れる単位は全てA評価で取ってやろうという決意をした。専攻が心理系であったため、大学の図書館にない心理系の本は依頼書のようなものを作成して大学によく買わせていた。心理系の本で大学が買ってくれないものはなかった。
勿論、これで調子に乗らないはずもなく、何かと理由をつけては好き勝手依頼書を出し、9割方読みたい本は手に入った。本の名義は大学であるが、そんなことはどうでもいいのである。中身がわたしの脳内に入ってしまえば本自体の所在など関係のない話だ。
さて、大学4年の後半になったときに異変が起きた。
文字の認識ができないのである。ちょうど卒論を書いていて8割ほどが完了し、残りは結果から推察される結論や今後の予想と全文を読み返しての誤字脱字、矛盾点の確認のみであったが、全てできなくなった。インプットだけでなく、アウトプットも難しくなっていた。
こんなことは生まれて初めてで「疲れが溜まっているのか」「何かの病気になったのか」「今更になってディスレクシアか?」「後天的なLDはあるのか」等々いろんなことを考えたものの、途中からそれすらできなくなってしまった。
結果、いつの間にか首を吊っていた。
要するに文字が読めない、理解ができない、発話困難、思考の鈍化はすべて病気由来のものであったのだが、とにかくこれに関しては悔しくて悔しくてたまらなかった。心の底から悔しく、惨めで、自身の能力のなさに絶望した。今の診断名は双極性障害となっているが、当時は抑うつ状態、もしくはうつ病であったように思う。万一、これが一生続いたらと思うとやはり絶望せずにはいられなかった。
字が読めないということがこんなに苦しいことだとは思わなかった。頭の回転の遅い人たちの気持ちがようやくわかった。こんな形でわからされたのも、わたしが今まで散々天狗でいたからなのだろうか、わたしはこんな思いをさせられなければならないほど悪いことをしてきたのだろうか、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、その結果が精神病なんて自分でも信じられなかった。
ただただ、絶望した。
結局、うつ転するたびに字の認識は困難になることがわかったため、部屋の本棚には外国語の参考書を残してすべて捨ててしまった。読めない本など持っているだけ無駄である。必要になればまた買うなり借りるなりすればいい。
おかげでわたしの本棚には今トミカと友人からもらった写真立てが鎮座している。
今はたまたま軽躁も軽躁で躁を極めつつあるので、こうして文を書き散らし、最近は近所の図書館で本を借りて読んでいる。
今読んでいるのは、
発達障害児の対応の仕方(誰が書いた?)
発達障害の原理と診断(タイトルすら曖昧)
俺たち花のバブル組(池井戸潤)
晩年(太宰治)
の5冊である。5冊全て同時に読んでいる。
行きの電車はこれ、帰りの電車はこれ、遊びの電車はこれ、寝室ではこれ、お手洗いではこれという具合で分けている。この同時進行で頭が絡まないのかと疑問に思う方もいるだろうが、調子のいいときの字に関しては特に内容の異なる本(発達障害の本はケースと理論なのでわたしの中では別枠になっている)なら、5冊くらいは問題ない。さらに言えば、今回は後半3冊が復習であるためすらすら頭に入ってくる。というより、単純に固く開けづらかった引き出しがするっと開くようになった感覚でいろんな文体の文字に頭を慣らすのが現在の目的なので正味内容はどうでもいい。
話を戻すが、マルチタスクが得意というわけでもないため、似通った内容になるとさすがにどっちがどっちかわからなくなる。こればかりは東大生やら瞬間記憶の特技がある一部の特殊な能力のある方々に軍配が上がるだろう。
わたしは所詮無名大学を出て、脳みそのおかしくなってしまった一介の無職である。
ここまで長ったらしく書いたのだから何かしら尤もらしいことを書いておこう。
本に限らず、目に入り、頭に残った知識は他人から簡単に奪われることのない自分だけの財産である。
黙読が難しいのであれば、音読をし、それでも頭に残らなければ、写生をして手を動かせばいいのである。そんなわけで昨今調子がいいので3冊の復習が終わったら適当な新書にでも手を出しつつ、また本の虫に戻るとする。
ぐるぐる愚民共。
あぐれ