服薬と日常の話
毎日飲んでる薬が7種類ある。
気分安定薬、睡眠系の薬、整腸剤で計7種類だ。
内1種類は胃の保護目的の漢方のため、錠剤として飲んでいるのは毎日15錠くらいになる。
ちなみに次の通院でもう1種類増えると思う。
薬が増える分には構わない。
構わないが、そんなに薬を飲んでまでして生きる意味はあるのだろうか。甚だ疑問である。
薬を飲まなければ成り立たない人生に意味はあるのか、考える時間が増えた。
例えば、糖尿病の人は血糖値をコントロールする薬を飲むだろう。
それはおかしいことだと思わないし、治療の一環としてするべきだと思う。
持病は1度悪化すると波が穏やかになって寛解したように見えても脳が疲弊し萎縮するとのことらしい。ちなみに今のところ脳の萎縮を止められても(萎縮の速度を遅くできても)元に戻すことができる文献は読んだことがない。
そう考えるとわたしが薬を飲む意味とはなんなのかいまいちよくわからなくなってしまうのだ。
正直、他人に迷惑をかけないように迷惑予防で飲んでいる側面が強い。
自分は飲んでいても飲んでいなくてもどちらでもよいし、なんなら飲まずに死んでしまいたいと思う。
死ぬ死ぬ言うと周りが「かなしい」だとか「さみしい」だとかどうでもいい感情のお世辞を並べてくれるので、言えることではないがいつかレボトミンがたくさんたまったら手持ちのベゲタミンととっておきのアルコールと一緒に最後の晩餐をしようと思う。
障害が残っても構わないし、死ねたら本望、意識がなくなれば万々歳である。
早く薬をためて死にたいなあ。
ぐるぐるグルマンディーズ!
また眠れないの話
眠剤を飲んだのが2時間前である。
掲題の通り、眠くない。
こういう日には否応なしに考え事をしてしまうもので、つくづく一人でよかったと思う。
もし、友人知人やきょうだい恋人が隣にいたらみじめでつらくて消えてなくなりたかったことだろう。
心療内科に通い出してから8年ほどになる。
わたしの中ではもう通わない選択肢はないため、これからもこの数字は死なない限り無限に伸び続ける。その事実もあまり受け入れたくはない。
薬を飲み始めて確実に変わったことがふたつある。
ひとつは寝る前の服薬準備の絶望感と虚無感に苛まれること。
もうひとつは旅行をしたくなくなったことである。
言わずもがな、眠剤は寝る前に飲む。わたしの場合は安定剤の類もまとめて寝る前に飲む。
シートから15錠ほどの薬を取り出し、水とともに服用する。
たったこれだけに思えるかもしれない一連の動作が毎日苦痛で仕方がないのである。
毎日毎日これが続くと思うととにかくみじめで薬頼りの自分に情けなくなる。
ただただ、悲しく陰鬱な気分になる。眠れない時は尚更だ。
旅行をしなくなったのもそれが大きい。
他人は薬を飲んでいるわたしより先に寝て、薬を飲んでいるわたしの方が早く起きる。これもみじめである。薬を飲んでも常人より眠れないのだ。
わたしはこんな人生が送りたくて薬を飲んでるわけではない。他人に隠れて薬を飲まなければならないようになったのは劣等感からだと思う。
もともと長時間眠れるタイプの人間ではなかったかもしれない。それでもここまでひどくはなかったはずだ。
眠れないつらさは眠れない人にしかわからない。
人並みになりたい。
できなくてつらいの話
誕生日前後は大抵絶望するものである。
そんなわけで2ヶ月ほど放置してしまった。理由は特にない。
最近のできないことはまあそれなりにあるものの、
主に
眠りたいのに寝れない
泣きたいのに泣けない
風呂に入りたいのに入れない
の三つである。
食事はギリギリあまりできてはないないが、書くほどのことでもない。
寝れない泣けない風呂れないのはしんどい。
ブログも書きたいのに全然書けない。
しんどい。
このあたりで。
楽な死に方ないかなあ
メメントモリの話
唐突に希死念慮が高まることがある。
そんな内容を書くかなと思ったため、表題がメメントモリである。
厳密には生きることを前提とした云々ということがあるかもしれないが、生きることを前提に人生を組み立てていないため却下である。
ここのところ気分安定薬が全く出ていなかった。
出なかったことについては、もはやどうでもいい。
どうでもいいが、薄ぼんやり予想していた「いつか」が最近来ているというだけのことである。
こういうときに思うのは
薬を飲まなければ自分の感情を制御出来ないのか
結局また増薬するしかないのか
具体的な自死の方法は何が最も効率的か
今まで成功した人達はどのように決行したのか
大体この4つである。
服薬についての絶望は常日頃からあるため、ひたすら諦念に徹しているが、具体的方法を探すとなるとなかなか難儀する。
投身が楽なことには変わりないらしい。位置エネルギーは偉大である。
縊死を想定した場合は、部屋のどこに紐を垂らすのか、そんな最適な場所が我が家にあるのか、なさそうで仕方なくベランダの手すりに紐をかけて死刑よろしく首に輪をかけつつそのままベランダの外へ身体ごと投げ出して頚椎を折りながら全うするのが最も現実的である。
いずれにせよ、屋外になってしまうため目撃者は軽い衝撃を受けるだろうが人生100年、生きていれば死ぬ人を目撃することくらいあるだろう。その日は運が悪かったと思ってぜひ一日を諦めて過ごしていただきたい。無論、わたしは死んでいるため責任は取らないし、取れない。
過剰服薬はどうなのか、という話もあるが、屋内でどうしても遂行する必要がある場合のみ実行する程度の優先順位である。
理由は、実現可能性が低いから。
手持ちの強めな薬を軽く挙げてみても
ベゲタミン100錠低度
サイレース70錠程度
レボトミン50錠程度
アルコールを入れたとしても圧倒的に少なすぎる。
あともう少し減量して薬の回りをよくしつつ、デパスマイスリーベンザリンコントミンその他手持ちの薬を投入しても、よくて2,3日意識がなくなるくらいで、後遺症なく社会復帰すればよいものの最悪の場合は横紋筋融解症で苦痛と共に入院生活である。
完遂できなさそうなことはしたくないので服薬で実行したい場合はもう200錠程度レボトミンあたりを足しておきたい。
ああ、でも若いときに失敗したのは肝臓の機能がそこそこよかったからで、もしかしたら今のわたしなら以前よりは率が上がっているかもしれない。
あくまで可能性の話である。
もしくは、もう一層のこと働くのも院に行くのも全てやめて入院してみるという手である。
言わずもがな今以上に人生は手に負えないことになるが、そもそも自力でどうこうしようと考えるからこの有様なわけで他人に全て委ねてしまうというのもある種の選択肢のような気もする。
しかしながら、精神科病棟の状況を漠然と知っているため正直に言ってしまえばあんなところで生き長らえるなら、死んだ方が精神衛生上よさそうである。
かなしきかな、日本の精神科医療。
投身と縊死、迷うところではありますね。
こんなところで。
死は救済。
人生初の話
読んで字の如く生まれて初めてのことである。
そんなことより私事の諸々が一段落し、今年度を振り返り、なんて心穏やかに過ごしてきたのだろうかと考えていると非情に無意味で有意義な時間であったとしか表現しようがなく、自身の語彙の少なさに悲しくもむなしくもなるのである。
無意味は、そのまま本当に意味のない時間であった。仕事をしていればその分キャリアも積めたであろうし、わたしの病的な貧困妄想は緩和されたかもしれない。資格試験も合皮はまだわからないし、無意味であった。
無意味と言い切れてよい時間であった。
有意義はまる一年、もしかしたらもっと昔からの重なりがあったのかもしれないが、掲題の通り、生まれて初めて自分の何でもない日常が連綿と続くのではなく、いつかどこかで何が原因かわからない瞬間に終わりを迎えることを考えて「かなしい」やら「さみしい」という感情を抱くようになった。
卒業式や転校、送別会、そして葬儀
そういう諸々の別れの場面で泣くひとたちのきもちが全くわからなかった。わかってもわからなくてもよかったことが、初めてなんとなくわかった気がした。
今、何かに怯えることもなく、何かを恐れることもなく、ただただゆっくり時間が流れていくのをしあわせだと感じたり、誰かと会う約束をしたり、誰から返事が来ることを楽しみにしたり、誰かがしあわせになってほしいとか、毎日平穏に過ごしてほしいとか、そういう気持ちも何もかも、全部が急に無になってしまうことがこんなにかなしいことなんだとようやくわかってきた。今更ではある。
今更でも気が付けてとてもうれしかったので久しぶりにブログを書いたというわけである。
わたしはこれからなんとなく誰かの配偶者になることもなく、ひとりで他人のしあわせを見ながら、そのおこぼれに与って、やわらかい気持ちを抱いて生きていければいいと思っていた。わたしも病気じゃなかったら、もっとたくさん本当に言いたいわがままもしたいこともたくさんあった。
過去形にしてしまうとできなくなくなってしまいそうなので、今後のことはわからないことにしておく。
だが、これからもわたしはわたしが自分のすきなひとたちがしあわせにおだやかに平和に過ごしてくれたらそれがいちばんなのだと思う。
いつだったか、誰かの結婚式のとき、新婚の方へ向けて手紙を書いたことがあった。
丁寧に返事が来た。
「あなたもどうか素敵な人を見付けて自分の人生をおくってください」
こんな感じの文が書いてあった。自分には関係のなさすぎる事柄かと思っていたことを他人からしかも社交辞令であろう文を読んで思わず泣いてしまった。
当時はどう考えてもわたしにそんな余裕はなかったし、そんな望みは持つべきではないと思っていた。
でも、泣いた。
とにかく泣いた。
今思い出しても泣ける。本当に自分がそんなしあわせを望んでもいいのか、人並みなことかもしれないが、人並みではないわたしを
まあ、あんまり書くと泣き始めるからここら辺でやめておくか。
とにかくわたしにもわたしの人生があることはわかっていたのだが、それが唐突になくなる日のことを考えてこわくなったのである。
ただそれだけのことだった。
そんなところで。
ここのところは心の底からしあわせなことが多くて様々な事象に甘えがちで、こわがりつつも試しているようなことばかりだったが、いつかわたしもいたずらをやめて他人の顔色を窺わなくて済むようになりたいなと思った。
それでも、いたずらはやめない気もするが、おおらかなひとたちにめぐまれたのでそれはそれでよしとする。
わたしはひたすらにしあわせである。
変な色したチラーミィ!