おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

花火をみたの話

ビアガーデンに引き続いて夏らしいことをした。

 

 

 

ビアガーデンが先だったのか後だったのかはもはやわからないが、まあ気にしていても仕方がない。

河川敷にビニールシートを敷くタイプの花火に行った。というか、予定が見えず観覧席のようなところを買っていいのか微妙だったからである。そもそもお金を払って花火をみたことがない。もはや乞食と言われそうだが、似たところがあるため大きな反論はせずにおく。

 

 

 

 

 

さて、花火はよかった。夏であった。

浴衣の男女が大量におり、泣き叫ぶ子ども、楽市楽座の存在しない的屋に並ぶ長蛇の列、光ってから時間差で届く破裂音、風下で感じる火薬の香り。

どれをとっても夏である。

 

 

愛を語るつがいがいれば、両親の愚痴を言い合う若人もいれば、子どもと花火の写真を必死におさめようとする父や母もいれば、無言で花火を凝視する我々もいた。

すべてが騒音、すべてが景色、すべてが花火の一部である。何か欠けてもいいし、何も欠けなくてもいい。

無職(とはいえ、今月からは会社員もどき)がたまには雑踏に混じってみてもいいだろう。わたしだってたまには景色の一部になりたいのである。

 

 

 

花火自体はそれなりによかった。今までで一番よかったものはどこだかわからないが、調布か葛飾か神奈川新聞、東京湾かそこらへんだろう。次点で流山だか三郷(同時開催か?)、足立、取手かたまがわ、更に下げれば隅田川と土浦である。

大曲も見たがうーん、混んでいた。同様に土浦、隅田川は激混みでむずかしかった。

 

 

 

 

電池がないため、こんなところで。

 

 

 

 

九月だし、なんかしら言い回しを変えていくか。

あぐれ

9月になってしまったの話

先に申し上げておくが、掲題はほぼ無関係である。

 

 

 

さて、9月になった。

ということは小中高校生の夏休み終了を意味している。何が言いたいのか?現在家庭教師で某3年生の授業を受け持っている。

要するに副業の話である。本業は守秘義務なのかコンプラなのかよくわからんとにかくあれこれうるさそうなので、基本的に書く気はないものの、副業についても生徒の特定が不可能な範囲でたまに書こうと思う。ちなみに言うとブログを万万が一生徒のご両親や生徒に見付かったとして対生徒保護者にもほぼフェイクでわたしの経歴は話しているし(資格の類は盛っていない)、ここにも本当のことをまるまる書くつもりもないため、物好きな購読者のみなみなさまにおかれましては「おおよそこんなことがあったのだろう」と適当な推測をして頂きつつ、読むなり止めるなりコロ助なりして頂きたい。

 

ブログのネタにするというよりは生徒を通して考えさせられたことに絞って書くつもりである。こどもの視点はなかなかに鋭いのである。

 

 

 

最近の授業でいうと、夏休みの始まりと終わりの話のときのことであった。

生徒「夏休みは始まらないでほしい」

わたし「どうして?」

生徒「始まったら終わりが来るから」

 

深い。ド直球で有無を言わせぬ哲学系の返答が来てしまい、思わず「それはそう」程度にしか反応ができなかった。こどもと思ってなめてかかると、彼らは意外と大人なのである。要所要所で「牽制」まがいの鋭い一言が飛んでくる。

こちらとしても気を抜けない相手方。

もはや歳の差こそそれなりにあれど、授業という土俵に立ってしまえばそれはもはや平等なプレイヤーなのである。開始の合図が鳴ってしまえば、講師も生徒もない。

「なぜ」「どうして」の純粋なぶつかり合いがそこに生まれるだけである。

 

 

わたしはどちらかというと攻めの講師のため、生徒の疑問質問に対しての解説もそこそこにするものの、大抵は「なぜこの回答にしたのか」「ここはどうしてなのか」「なんで」「どうして」「どういうこと」ともし他人から見たら「詰め」の手前に見えるようなこともたくさんこどもに投げかけている。

そのたびにこどもは彼らの持つ知識をフル活用して自身の言葉で表現や説明をしようと試みてくれるのである。個人的にはこの質問し本人に説明させる方法が最も本人の学習定着度を早くできるものなのではないかも思ってある。

 

 

 

 

長く待ってきたのでそんなところで、家庭教師つけられるっておかねあるなあ。、

 

 

 

 

 

用意は周到、準備は万端、頼れるものは使い倒せ。

よそはよそ、うちはうち、分相応な人生を。

あぐれ

ロイヤルホストの話

ファミレス談義は続く。

 

 

 

安価系ファミレス、高級系(?)ファミレス、ミドル系ファミレス、まあ基準はそれぞれだろうが、ロイヤルホストは高級系に入ると思う。

最近たまに行くことが多い。目当ては大抵キーマカレーか、甘酢なんとかか、オニオングラタンスープあたりである。夏ゆえにしょっぱいものが食べたいのだろうか。最近はガストに行っても日替わり以外だと甘酢なんとか系か、 安めのハンバーグに塩をばんばん振って食べている。腎がやられるだろうか…

 

 

 

ともあれ、ロイヤルホストの話である。

これは完全なわたしの偏見だが、まずガストやサイゼリヤに比べ、格段に客層がいい。言わずもがなドリンクバーも「ちゃんと(?)」している。偉そうになんなんだという話なのはわかるものの、Wi-Fi繋いでちんたら報告書作成しながら、飯を掻き込むときはガスト、究極に金がないとき(あるのか?) はサイゼ、それ以外は気分の向いたファミレスに行くが吉である。

ロイヤルホストWi-Fiがない代わりに学生で長居し、意味不明に大声で騒ぐ輩が少ない。というか、価格帯とわたしの行く時間帯的に大抵周りはサラリーマンか、それに準ずる仕事の合間感漂う方々が多い。もちろん、子連れやママ友か何かのランチやお茶の利用も散見する。

 

 

 

 

わたしのファミレスの美味しさ位置づけだと

シズラー≧ロイヤルホストデニーズ≧ココス≧フォルクス≧不二家レストランフライングガーデン≧ガスト≧サイゼ>ジョナサン≧ジョイフル>バーミヤン

あたりである。

びっくりドンキーは行ったことがないため、除外しておいた。シズラーを入れるとつばめグリルあたりはどうなのか、という論も出そうだがフォルクスの並びで出しただけなのであまり細かいところをつついてくださいませんよう。

 

まあ、食べれば腐っていない限り大概おいしく感じる馬鹿舌なのでわざわざ序列を作るまでもないことではあるものの、せっかく最近ファミレスファミレス言っているので所感を残しておこうかと。

 

 

 

 

そんなところで、商業ベースに乗る食べ物でまずいものは少ないね。

 

 

   

 

用意は周到、準備は万端、お腹が空いたらロイヤルホスト

適正価格のお昼ごはんで分相応な人生を。

あぐれ

食べすぎてしまうの話

ここ1ヶ月くらい悩んでいる。

 

 

 

 

食べなければいい、別のことをすればいい、買わなければいい、その他もろもろわかる。

わかってはいるものの、外出でもして財布を持って外に出たが最後、予定が終わり次第適当な飲食店で自分でも驚くほどの注文をし、詰め込むように平らげ、最寄り駅に着いたら着いたでコンビニやスーパーで目に付くものを買い漁り、帰宅してからも詰め込んでいる。

幸いなことに今のところ戻してはいないものの、正直言って体重の増加も過食自体のストレスや倦怠感にも苛ついている。ストレスで食べているのか、食べているストレスで更に食べることになっているのかもはやわからない。

 

 

ゆえに今度心療内科にかかったときには「もう過食で無理なのでなんかしら案を出してください。無理なら下剤飲むし、吐きます。本当に無理なので。」と言ってみることにした。先週だか先々週にも過食のことは相談したが、「次回でも好転していなければそれで対策しましょう」とのことだったため、対症療法であっても医師の力をお借りしたいというところだ。というか、そもそも経過観察で何も周りの状況が変化してないのだから、過食がおさまるということの方が少ないのでは?と思ったが、そういう屁理屈をこねると世の人々に嫌われそうなのでブログに書くに留めておく。

 

 

 

過食の状況について詳しく知りたい人がいれば書くが、ネットで検索すれば出るようなことをわたしもしているだけなので取り立ててそれ自体を記事にすることはないと思う。

 

 

 

 

最近、金魚が水面を叩くけど、なんか怒ってるのかな。

 

 

 

 

そんなところで、何事も適度が肝要。

 

 

 

 

用意は周到、準備は万端、無計画な過食はストレスのもと。

バランスの良い食事で分相応な人生を。

あぐれ

水草が死にまくっているの話

アマフロは増えている。

 

 

 

 

金魚藻だの金魚草だの言われる方のマツモが減っている。

減少の原因は室内の金魚がマツモを食べまくることと、室外の睡蓮鉢が青水になってしまったことである。ゴールデンウィークにせっかく睡蓮鉢をきれいにしたのにあっという間に緑色になってしまった。もう睡蓮鉢の大規模な掃除はしてやらない。

 

 

 

 

 

だめだ、なんだか書いていても疲れてしまった。

秋の香りがするの話

涼しくなってきた。

 

 

 

 

みなみなさまにおかれましては「平成最後の夏」だの「○○歳最後の夏」だのと随分まあお忙しそうで結構なことだと存じますけれども、わたしの夏はまだまだ終わりません。だいたい10月くらいまでは夏である。

水風呂を卒業するのもおそらくは10月かそこらかと思われるため、やはりそれまでは夏と言い切ってしまって問題ないだろう。自分の夏は自分で決めればいい。

 

 

 

とはいえ、掲題は秋の香りとしている。

そこら中でやれサンマだのリンゴだの早め早めの販促が行われている。なんていうのもいまいち味気ない。単純に涼しい日が増えた。

深く深く見上げるほどの空と小気味良い風が通り抜けるのを肌が喜ぶとき、秋が来ていると感じるのである。まだまだ稲穂が頭を垂れるまでは時間がかかり、鈴虫や蟋蟀の準備ができるのも少し先だろう。

ただ、確実に夏は気配を薄くさせ、秋に席を譲ろうとしている。こういう季節の移り目は何があるわけでもなくとも、どこか懐かしく感じられ、わたしにも郷愁に似た感情があることの証左なのだと、かえって自身を安心させる材料になる。

帰るところはないんですけどね、ホームシックじゃないけどなんだろう、ノスタルジー的な単語くらいしか思い浮かびませんでやはり郷愁紛いの感情を抱くということに集約されるわけです。

 

 

 

 

最近、知人と話していて

わたし「延命治療を施されている気分」

知人「わかる」

となったのでこの会話の意味がわかるひとはわたしよりの考えのようですね。

 

 

 

いつぞや生まれた以上、誰もが死に向かって歩き続け、どんな過程を経ようとも行き着く先は死であり、この事実を否定できた人はいないため、生きる意味とはなんなのか云々という記事を書いたように思う。

わたしの周りの頭のおかしい知人は常に生に疑問を持ち、死の機会を窺い、健常な知人で「どうせ死ぬのに何故生きるのか」というわたしからの問いに対し、わたしの納得のいく答えを出せた人はいない。健常者にとってはそもそもこれが愚問であり、疑問にすら思わないのであろう。相容れない思考ではあるが、相容れないなりに吸収したい点は多くある。

 

 

 

 

 

そんなところで、秋の香りはわたしの季節の幕開けということ。

 

 

 

 

用意は周到、準備は万端、専守防衛、やられたときは目には目を。

過剰報復禁止の原則。

法律も社会通念上の常識も守って分相応な人生を。

あぐれ

ビアガーデンに行ったの話

ようやく夏らしいことをした。

 

 

 

行ったのは新宿駅から10分圏内、ビルの屋上で行うよくあるビアガーデンである。飲み放題・食べ放題のプランにしてあったらしい。

ビールは苦手なので乾杯から別のものを飲んでいた。

 

 

開始は日没後からだったため、日中の暑さはどこへやら。すっかり涼しさも混ざる気温で一同が飲めや食べろやでさながら小規模なお祭りであった。

合計で確か12,3人はいたと思う。定かではないのはわたしが今回の企画やら会計に携わっていないのと女性陣はともかく、男性陣はわからない人もいたからである。ちなみに合コンではない。それもそれで残念である。

 

 

2時間程度周りの人たちと何やら色々話していたように思うが、あまり書くのもどうかも思うのでとりあえず「ビアガーデンに行ってきましたよ」というご報告まで。

 

 

 

 そんなところで、飲み過ぎ注意。

 

 

 

用意は周到、準備は万端、ウコンの力を頼りすぎずに。

楽しく飲んで分相応な人生を。

あぐれ