秋の香りがするの話
涼しくなってきた。
みなみなさまにおかれましては「平成最後の夏」だの「○○歳最後の夏」だのと随分まあお忙しそうで結構なことだと存じますけれども、わたしの夏はまだまだ終わりません。だいたい10月くらいまでは夏である。
水風呂を卒業するのもおそらくは10月かそこらかと思われるため、やはりそれまでは夏と言い切ってしまって問題ないだろう。自分の夏は自分で決めればいい。
とはいえ、掲題は秋の香りとしている。
そこら中でやれサンマだのリンゴだの早め早めの販促が行われている。なんていうのもいまいち味気ない。単純に涼しい日が増えた。
深く深く見上げるほどの空と小気味良い風が通り抜けるのを肌が喜ぶとき、秋が来ていると感じるのである。まだまだ稲穂が頭を垂れるまでは時間がかかり、鈴虫や蟋蟀の準備ができるのも少し先だろう。
ただ、確実に夏は気配を薄くさせ、秋に席を譲ろうとしている。こういう季節の移り目は何があるわけでもなくとも、どこか懐かしく感じられ、わたしにも郷愁に似た感情があることの証左なのだと、かえって自身を安心させる材料になる。
帰るところはないんですけどね、ホームシックじゃないけどなんだろう、ノスタルジー的な単語くらいしか思い浮かびませんでやはり郷愁紛いの感情を抱くということに集約されるわけです。
最近、知人と話していて
わたし「延命治療を施されている気分」
知人「わかる」
となったのでこの会話の意味がわかるひとはわたしよりの考えのようですね。
いつぞや生まれた以上、誰もが死に向かって歩き続け、どんな過程を経ようとも行き着く先は死であり、この事実を否定できた人はいないため、生きる意味とはなんなのか云々という記事を書いたように思う。
わたしの周りの頭のおかしい知人は常に生に疑問を持ち、死の機会を窺い、健常な知人で「どうせ死ぬのに何故生きるのか」というわたしからの問いに対し、わたしの納得のいく答えを出せた人はいない。健常者にとってはそもそもこれが愚問であり、疑問にすら思わないのであろう。相容れない思考ではあるが、相容れないなりに吸収したい点は多くある。
そんなところで、秋の香りはわたしの季節の幕開けということ。
用意は周到、準備は万端、専守防衛、やられたときは目には目を。
過剰報復禁止の原則。
法律も社会通念上の常識も守って分相応な人生を。
あぐれ