食べすぎてしまうの話
ここ1ヶ月くらい悩んでいる。
食べなければいい、別のことをすればいい、買わなければいい、その他もろもろわかる。
わかってはいるものの、外出でもして財布を持って外に出たが最後、予定が終わり次第適当な飲食店で自分でも驚くほどの注文をし、詰め込むように平らげ、最寄り駅に着いたら着いたでコンビニやスーパーで目に付くものを買い漁り、帰宅してからも詰め込んでいる。
幸いなことに今のところ戻してはいないものの、正直言って体重の増加も過食自体のストレスや倦怠感にも苛ついている。ストレスで食べているのか、食べているストレスで更に食べることになっているのかもはやわからない。
ゆえに今度心療内科にかかったときには「もう過食で無理なのでなんかしら案を出してください。無理なら下剤飲むし、吐きます。本当に無理なので。」と言ってみることにした。先週だか先々週にも過食のことは相談したが、「次回でも好転していなければそれで対策しましょう」とのことだったため、対症療法であっても医師の力をお借りしたいというところだ。というか、そもそも経過観察で何も周りの状況が変化してないのだから、過食がおさまるということの方が少ないのでは?と思ったが、そういう屁理屈をこねると世の人々に嫌われそうなのでブログに書くに留めておく。
過食の状況について詳しく知りたい人がいれば書くが、ネットで検索すれば出るようなことをわたしもしているだけなので取り立ててそれ自体を記事にすることはないと思う。
最近、金魚が水面を叩くけど、なんか怒ってるのかな。
そんなところで、何事も適度が肝要。
用意は周到、準備は万端、無計画な過食はストレスのもと。
バランスの良い食事で分相応な人生を。
あぐれ
水草が死にまくっているの話
アマフロは増えている。
金魚藻だの金魚草だの言われる方のマツモが減っている。
減少の原因は室内の金魚がマツモを食べまくることと、室外の睡蓮鉢が青水になってしまったことである。ゴールデンウィークにせっかく睡蓮鉢をきれいにしたのにあっという間に緑色になってしまった。もう睡蓮鉢の大規模な掃除はしてやらない。
だめだ、なんだか書いていても疲れてしまった。
秋の香りがするの話
涼しくなってきた。
みなみなさまにおかれましては「平成最後の夏」だの「○○歳最後の夏」だのと随分まあお忙しそうで結構なことだと存じますけれども、わたしの夏はまだまだ終わりません。だいたい10月くらいまでは夏である。
水風呂を卒業するのもおそらくは10月かそこらかと思われるため、やはりそれまでは夏と言い切ってしまって問題ないだろう。自分の夏は自分で決めればいい。
とはいえ、掲題は秋の香りとしている。
そこら中でやれサンマだのリンゴだの早め早めの販促が行われている。なんていうのもいまいち味気ない。単純に涼しい日が増えた。
深く深く見上げるほどの空と小気味良い風が通り抜けるのを肌が喜ぶとき、秋が来ていると感じるのである。まだまだ稲穂が頭を垂れるまでは時間がかかり、鈴虫や蟋蟀の準備ができるのも少し先だろう。
ただ、確実に夏は気配を薄くさせ、秋に席を譲ろうとしている。こういう季節の移り目は何があるわけでもなくとも、どこか懐かしく感じられ、わたしにも郷愁に似た感情があることの証左なのだと、かえって自身を安心させる材料になる。
帰るところはないんですけどね、ホームシックじゃないけどなんだろう、ノスタルジー的な単語くらいしか思い浮かびませんでやはり郷愁紛いの感情を抱くということに集約されるわけです。
最近、知人と話していて
わたし「延命治療を施されている気分」
知人「わかる」
となったのでこの会話の意味がわかるひとはわたしよりの考えのようですね。
いつぞや生まれた以上、誰もが死に向かって歩き続け、どんな過程を経ようとも行き着く先は死であり、この事実を否定できた人はいないため、生きる意味とはなんなのか云々という記事を書いたように思う。
わたしの周りの頭のおかしい知人は常に生に疑問を持ち、死の機会を窺い、健常な知人で「どうせ死ぬのに何故生きるのか」というわたしからの問いに対し、わたしの納得のいく答えを出せた人はいない。健常者にとってはそもそもこれが愚問であり、疑問にすら思わないのであろう。相容れない思考ではあるが、相容れないなりに吸収したい点は多くある。
そんなところで、秋の香りはわたしの季節の幕開けということ。
用意は周到、準備は万端、専守防衛、やられたときは目には目を。
過剰報復禁止の原則。
法律も社会通念上の常識も守って分相応な人生を。
あぐれ
ビアガーデンに行ったの話
ようやく夏らしいことをした。
行ったのは新宿駅から10分圏内、ビルの屋上で行うよくあるビアガーデンである。飲み放題・食べ放題のプランにしてあったらしい。
ビールは苦手なので乾杯から別のものを飲んでいた。
開始は日没後からだったため、日中の暑さはどこへやら。すっかり涼しさも混ざる気温で一同が飲めや食べろやでさながら小規模なお祭りであった。
合計で確か12,3人はいたと思う。定かではないのはわたしが今回の企画やら会計に携わっていないのと女性陣はともかく、男性陣はわからない人もいたからである。ちなみに合コンではない。それもそれで残念である。
2時間程度周りの人たちと何やら色々話していたように思うが、あまり書くのもどうかも思うのでとりあえず「ビアガーデンに行ってきましたよ」というご報告まで。
そんなところで、飲み過ぎ注意。
用意は周到、準備は万端、ウコンの力を頼りすぎずに。
楽しく飲んで分相応な人生を。
あぐれ
フォルクスの話
くるまではない。
SIZZLERの下位互換(怒られる)のような店のことである。
要するに肉を頼むとサラダバーやスープバーがついてくる飲食店だ。
わたしは割合シズラーがすきなのだが、如何せん毎日行けるかと問われるとランチでも気軽に払ってへらへらしていられるほど裕福な無職ではない。そこでフォルクスにお願いするのである。
「割安で野菜もスープも肉もほしいです」
「よろしい。1500円持ってこい。釣りは出す」
という具合でガストやサイゼで食べるよりは高いが、それでもサラダ・メイン・パン・スープ(+ライス)で1000円ちょっとで済むのであれば妥当どころか割安なのではないだろうか。
細かいことを書くと
シズラーは肉を頼むと
パン、野菜、スープ、カレー、パスタ、タコス、フルーツ、デザート、ソフトクリーム、ソフトドリンク
がフリーになる。ちなみにわたしは行くと「これでもか?」というほどに大量のオレンジを詰め込む。日本のフルーツは高すぎるのである。しかし、おいしいため抗えない。
フォルクスは
1度のみライスOKで、パン、野菜、スープ、フルーツ
がフリーになる。
要するに両者の差は
ドリンク・デザート・その他ライトミールの有無である。
フォルクスでも大抵オレンジかグレフルが置いてあるので、失礼な表現をするが、ガストよりまともな肉と適度な果物が食べたいときは最寄りのフォルクスに行くことにしているというわけである。
なんだかシズラーやフォルクスをめちゃくちゃに上げたような記事になりつつあるが、基本的にわたしが自宅で料理をしたくない&コンビニでも嫌だというときはよっぽどのことがない限りガストの日替わりで済ませているため、そのあたりすかいらーくグループさんにはくれぐれもよろしくお伝えしていただきたい。
そんなところで、適度に外食できるくらいの無職が身の丈に合っているというものですわね。
用意は周到、準備は万端、好きなときにお外でごはん。
分相応な人生を
あぐれ
手持ち無沙汰の話
暇なときのことである。
もし、自宅内にいるのであれば本を読むなり金魚を見るなりコロ助なりであるものの、外に出てしまうとこれは困るのである。
特に待ち合わせやとにかく何かしらの待機時間で理由不明なスマホ使用制限などがある際(どんな状況だ?)は、みなみなさまにおかれましては何をされているのか非常に気になるところでぜひ妙案があれば賜りたい所存。
というのも、わたしがここのところそういう状況に陥りがちで、あまりにやることがなさすぎるとまるで新種の生物でも発見したかの如くまじまじと自分の爪を眺めてみたり、これはいい暇つぶしだとでもいいたげな顔をしながら毛先が傷んでいないかを確認する程度しか手持ち無沙汰の解消法を知らないからである。
だいたいからしてこれでは手持ち無沙汰から解放されてもいないし、再び未知との遭遇をした人を装って神妙な面持ちで腕時計の秒針と対話する試みを始めるが、結局爪と髪の二番煎じ、もはや三番煎じで出涸らしもいいところだろう。
電車内にいれば、中吊り広告や液晶に映るCMを見て勝手に連想ゲームでもすればいい。
街を歩けば、それはそれで街ゆく人を見て「髪の毛は長すぎない方がいいのか」「金を払って美容室に行くべきか」など適当な問答を繰り返せばいい。
ああ、結論が出てしまった。
自問自答しておけばいいのである。自分で適当な題を作り、それに対する最適解を見付ける作業を延々と繰り返す。
さて、読者の方々はおわかりだろうが、他者の介入しない問答の末に至る結論は「速やかな自死の決行」である。
ひとりで考えて結論を出すという作業は平常時であれば全く問題のない労力で済むものの、ことこれが脳疾患のある精神障害者ときてしまえば着地点など言わせる方が無粋というものではないだろうか。
ちなみに言っておくと、しぬしぬ言っているうちは死なないという法則があると信じているため、もうしばらくはしぬしぬ言っておくだろうし、死ぬまでしぬしぬ言うのだと思う。
死ぬまでしぬしぬ言うとはなんなんだろうか、当然のことを言ってしまった。
そんなところで、手持ち無沙汰くらいがちょうどいいのか、多忙くらいがちょうどいいのか、全くわからない。
用意は周到、準備は万端、手持ち無沙汰はどうしようね。
困ったときの自問自答。
分相応な人生を。
あぐれ
久方ぶりの焦燥感の話
頓服の必要な程度の、という意味の焦燥感が久々にきた。
これには漠然とした理由があり、それは単純かつ明快で「睡眠不足」ではないかと考えているところである。というのもここのところしっかり眠れすぎていたにも関わらず昨晩は2時間ほどだった。
少ないのは入眠剤だけ飲んでその他の薬を意図的に飲まずにいたからである。意図的だったのは入眠時と起床時を逆算して中長期の眠剤は持ち越しが怖かったからでなんとなく飲み飛ばしてみたわけではなかった。
しかし、薬の力を借りねばこうも眠れないとはなかなかに困ったものである。
書いてるうちにも気管支の周りに虫が這い回るような気持ち悪さを無視できなくなってきたため、このあたりにしておく。
薬があればどうにかなるのか
薬がなければどうにもならないのか
極端な思考に陥りがちである。