おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

手持ち無沙汰の話

暇なときのことである。

 

 

 

もし、自宅内にいるのであれば本を読むなり金魚を見るなりコロ助なりであるものの、外に出てしまうとこれは困るのである。

特に待ち合わせやとにかく何かしらの待機時間で理由不明なスマホ使用制限などがある際(どんな状況だ?)は、みなみなさまにおかれましては何をされているのか非常に気になるところでぜひ妙案があれば賜りたい所存。

 

 

というのも、わたしがここのところそういう状況に陥りがちで、あまりにやることがなさすぎるとまるで新種の生物でも発見したかの如くまじまじと自分の爪を眺めてみたり、これはいい暇つぶしだとでもいいたげな顔をしながら毛先が傷んでいないかを確認する程度しか手持ち無沙汰の解消法を知らないからである。

だいたいからしてこれでは手持ち無沙汰から解放されてもいないし、再び未知との遭遇をした人を装って神妙な面持ちで腕時計の秒針と対話する試みを始めるが、結局爪と髪の二番煎じ、もはや三番煎じで出涸らしもいいところだろう。

 

 

 

 

電車内にいれば、中吊り広告や液晶に映るCMを見て勝手に連想ゲームでもすればいい。

街を歩けば、それはそれで街ゆく人を見て「髪の毛は長すぎない方がいいのか」「金を払って美容室に行くべきか」など適当な問答を繰り返せばいい。

 

 

 

ああ、結論が出てしまった。

自問自答しておけばいいのである。自分で適当な題を作り、それに対する最適解を見付ける作業を延々と繰り返す。

 

 

 

 

さて、読者の方々はおわかりだろうが、他者の介入しない問答の末に至る結論は「速やかな自死の決行」である。

ひとりで考えて結論を出すという作業は平常時であれば全く問題のない労力で済むものの、ことこれが脳疾患のある精神障害者ときてしまえば着地点など言わせる方が無粋というものではないだろうか。

 

 

 

ちなみに言っておくと、しぬしぬ言っているうちは死なないという法則があると信じているため、もうしばらくはしぬしぬ言っておくだろうし、死ぬまでしぬしぬ言うのだと思う。

死ぬまでしぬしぬ言うとはなんなんだろうか、当然のことを言ってしまった。

 

 

 

そんなところで、手持ち無沙汰くらいがちょうどいいのか、多忙くらいがちょうどいいのか、全くわからない。

 

 

 

 

用意は周到、準備は万端、手持ち無沙汰はどうしようね。

困ったときの自問自答。

分相応な人生を。

あぐれ