おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

気分安定薬の話

効いているのかいないのかわからないというところが正直な感想である。

ちなみにリチウムは出ていない。

今のところは
ラミクタール 100mg
頓服で
睡眠系分類で
ブロチゾラム わからん(名称も忘れた)
デバス 1mg
その他
あたりで完全に肝臓の薬物代謝は追いつかないだろう

いつまでもつのかもたんのか

もたないほうが幸せかもしれないし、そのあたりは正直な話ちょっとよくわからないが、長生きしない方が幸せなんだろうなあということだけは漠然とわかる


わたしの持論ではあるが、個々人には政府だかどこかの研究施設だかが設定したお偉方の平均余命なんかよりも健康余命よりも大事な部分が抜け落ちすぎていていまいち諸手を挙げて賛同しかねる部分がある。

雑な言い方をすれば各々の尊厳余命である。寿命と書くとなんとなく語弊がある気がするので全て余命で統一した。

尊厳とは何かという定義から始めなければいけない気もするが、大方読者の方々が考えている尊厳と相違ないと信じているため割愛する。このあたりは了解可能、不可能のことを調べて適当に納得しておいてほしい。 

単に足腰が動き、元気に見えるようであっても、現役時の蓄えと僅かな年金、加齢で弱る思考、経済活動、その全てに尊厳はあるのだろうか。彼らは惰性で生きているのか、それとも何か崇高な目的も持ち、後世に残る何かを託すために生きながらえているのだろうか。後者のような人間は少数だろう。わかりやすく言えばいわゆる一般的な「孫の成長を見たい」「最後に〇〇へ旅行をしたい」その程度の幸福をあたかも重大なことのように言ってまわるのが関の山である。
もしくはわたしのこの思考自体が彼らの尊厳を傷付けているのだろうか。
まあ、それならそれでよい。相容れない人間同士は会わずに済むならそれがいちばんなのである。別にわたしはご高齢の方々に対して積極的に死を選べを申し上げている訳では無い。

わたしにとってこの薬漬けの生活に尊厳はあるか、問われると非常に答えづらく、もし安楽死が可能であれば即座に選ぶだろう。注文をつけるならば、死んだ後はなるべく新鮮な状態で使える臓器を誰かに移植し、使えるところは余すことなく使って欲しいというところである。
薬か、飲んでいるだけで国内の社会保障費を圧迫するんだろうか、生きてるだけで考えるだけで申し訳なくなってくる。



そんなところで。


考ええれは考えるほど負の連鎖。、

血痰の話

慣れない生活が続き、生まれて初めて血痰が出た。

 

 

初めは面白がっていたものの、熱は上がりに上がり、最終的には39.6度。

インフルエンザを疑うも、正直外出する気力がない。そもそもインフルだったら、なんの薬をもらおうとも抜本的な解決にならないのは存じ上げておりまして、熱が出るまま好きにさせておくつもりだった。これが4/30の判断である。

 

結果として4/4まで39度台の熱は長引き、ほぼ扁桃炎であることが確定、致し方なく救急病院に駆け込み適当極まる受診の末、自宅に帰ってきたという次第。

 

平成も令和も扁桃炎の熱の中で勝手にどうこうなってしまった。

正味、わたしにはどうでもいい話で、今は少しばかりやらねばならない手続きが重なりすぎていて気が重い。

 

 

 

まあ、扁桃炎にならなければ日々の健康がどれほどありがたいか実感できなかったというのまた皮肉なものだろう。

気分安定薬導眠剤睡眠薬、副作用防止薬、頓服、解熱剤、鎮痛剤 合計で何錠あるのか数えるのも億劫である。

健康な方々は薬を飲まないというだけである程度の幸福なのだということを知るきっかけになってくれるとうれしい。

 

 

 

そんなところで。

 

 

また焼くも扁桃腺、切るも扁桃腺。

迷いどころ。

平和って言葉がなんか懐かしく聞こえないかの話

今は昔の話である。

 

まあ、以前の記事にも書いたであろうが高校の時あたりで聴くとボロ泣きしていた曲である。

 

親は当然のごとく子を愛し、子もまた親を敬い感謝する。

なんともぬるく型通りでつまらぬ発想である。

 

 

こんな斜に構えた思考も認知の歪みゆえか。

認知の歪みか、何一つ治る見通しは立たず、カウンセリングでも受ければ変わるか?

 

 

変わらないだろう。

何も変わらないのである。幼少期からの刷り込み、脳の奥深くまで植え付けられた他人への不信感、特に男性への恐怖と大人への失望。

 

 

 

変わりたいのか、変われないのか、自身の意思はもはや分からない。

 

 

 

理解を深めることはすなわち自身の思考を縛ることであり、思考停止はもはや人間としての死と相違ないであろう。

 

 

 

 

夜の思考はあまりよくない。

 

 

 

 

今夜は青色。

百合の花咲くの話

タイトルは全くもって関係ない。
特に思い付かなかったので書いたというだけである。




早いもので今年度ももうすぐ終わるらしい。
流れる季節の真ん中で…というところであろうか、日付が違った。




最近はといえば、相変わらず労働に身を費やし疲弊している。
疲弊しているとは言うものの、存外に気力はあるように感じる。無論、感じるだけで正味な話、身体的な限界はそこそこに近いように思う。

気力があるように感じ始めたのも昨日からで、理由は単純に1ヶ月ぶりに心療内科に通えたというだけで状況は何一つ変わらない。
ただ、少なくとも手持ちの眠剤がないゆえの不安や頓服がないゆえの焦燥感は減った部分はある。
薬がないだけでこれだけ安定しないというのも困りもので、これが半ば一生続くのかと思うと耐えられるか否か微妙なところであり、消耗した脳は戻らないという事実から目を背けて暮らすしかないのが現実としてのしかかってくる。

以前書いたようにも思うが、そもそも双極(以前の診断はうつであったが)は完治とは表現せず、寛解という言葉を使う。症状が落ち着いただけで再燃の可能性が高いため、完治とは表現できないらしい。
躁のときに勢いに任せて飛び降りるもよし、抑うつのときに気力を振り絞って首を吊るもよし、ああ、ただ首吊りは以前に失敗したので飛び降りるか飛び込むかのいずれかがいいのかもしれない。
他人の迷惑というのは重々承知で何回でも轢き殺してくれて構わない。
いちばん効率的なのはこういう類の精神疾患持ちを社会保障費を圧迫している順に大学病院や製薬会社に売り飛ばして検体にするか、健常かつ積極的な経済活動をしている臓器移植待ちの人に内臓丸々提供すると無駄がなく、理想的な循環型社会の実現が目指せるのではないかと思う。まあ、このあたりは小学生の夏課題のノリで書いたが実際にそう考えているのだから致し方ない。

とかく双極、統失、精神疾患ではないが社会に適応できない程度の発達障害あたりも潰してしまって構わないだろう。
このあたりは遺伝もすれば、そもそも完治の見込みがない。生きてるだけで害をなすと言えば言い過ぎなのかもしれないものの、正直生きている意味はほぼほぼないと思う。
生物としての多様性に脳の疾患は不要であるというのが持論だからだ。サヴァンや何かを想像する人たちは些か夢を見すぎだろう。健常者でさえ、使えないゴミクズがどれだけいるかわかっているのか。況や障害者をや、である。
あまり書くと障害児を天使と呼ぶ類の盲に袋叩きに遭いそうなのでこの辺にしておくか。

しかし、健常者が希死念慮を持たず日々暮らしていると聞いて信じられない。
瞬間的な絶望から死を考えても、健常者の脳はこういう作りにはなっていないらしく、生に対して前向きな人間というのはもはや別種の生物である。
ここ数日は自死を考えるというより、生きずに済む方法を考えることが多かった。イコールのようだが、自身の中では異なる問題なのであまり深くは追求しないでいただきたい。
死ぬのも面倒な程度には肉体が疲弊していたというのが正直なところだ。労働に身を費やすのは疲弊する反面、正常な思考を鈍らせ感覚を劣化させるという意味では自殺の危険性が低くなるような感覚があり、あながち悪くないのではないかと思えてしまうあたり、「健常な人間」としては終わりが近いようである。

健常か否か、という論もそれぞれあるのだろうが主治医からは「慢性疾患ゆえに生涯に渡る投薬をある程度覚悟しておくように」との金言を頂いているため、覚悟のないわたしにとっては楽な死に方がないかを探す理由にしかならなず、余計に人生に対して絶望せざるを得ない。




久々で書きすぎたか、こんなところで。




今日は紺色。

距離感の話

全くもってわからない。

どちらかというと距離を置きガチな方だと思う。人見知りをする、知らない人は怖い、いつか殴られる、そんな気がする。そろそろなおしたいところである。

 

 

スマホの調子がすこぶる悪い。

4年4ヶ月になれば、、、

 

、、、ああもう上手く書けないな

おしまい

、、、、、、

 

 

 

ゴミかこよスマホ

また体重が増えたの話

自己嫌悪の日々である。

 

 

体重が増える原因は色々ある。

食べすぎ飲みすぎストレス運動不足病気やら薬の副作用。

幸いなことに薬の副作用はなさそうである、一昔前まではトピラマート(?)たぶんトピナが過食防止で処方され、ねむいのでこのへんで

 

 

 

 

 

ねるねるねるね

塩分の話

ここのところ甘味より塩味である。

 

 

 

しょっぱいものがほしいというわけであるが、これはどうやらミネラル不足が原因らしい。知ったことか。

食べたいものを食べたいように食べる。

ゆえに炒飯には塩コショウ、置いてあれば一味を足し、餃子は酢醤油に浸し、揚げ物類もソースやタレに浸かってもらう。素材の味というのは正味もうよくわからないものの、それはそれでいいのである。

個人的には塩分が取れて満足している。

 

 

 

 

塩分過多で血圧が…という話はよく耳にすることであろうが、どうやら日本人の3割程度しか関係ないらしい。わたしも今のところは関係ない部類の人間であるようだ。

塩分を取りまくってても血圧は安定して上も二桁のやや低め。女性にありがちな数字で生きている。

 

 

 

ここのところ健康だ美容だなんだと書いているが、そういう話題を書けているときの精神衛生状態はそこそこよい。

これは予約投稿になるため、投稿時にどうなっているのかはわからない。

年末年始は時間が有り余っていたものの、複数人と会うほどの余裕がなく、1対1で会う予定はどうにかなったものの、それ以外はむずかしく断ってしまった。人がたくさんいるのがこわいというよりも自分の余裕がないときに複数での予定があると「ここには自分が参加しなくてもこの会はまわる」という気持ちが根底にあるからだと思う。実際そうだから取り立ててあれこれ言われることもないのだろう。

言われていたところでわたしのいるところでなければ大丈夫である。陰口叩いて発散されるなら大いにそうするべきだと思う。

 

 

 

 他人に迷惑をかけない方法でストレスを発散させることがだいじ。

ゆえにしお。

 

 

 

そんなところで。

 

 

 

 

おかかえのあじしお。