おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

ご無沙汰しているの話

夏が終わったとのことである。

 

 

ブログを放置して1ヶ月半、書き溜めていたので2ヶ月放置していた感があるがそのあたりどうでもよかろう。

寒くなった。仕事もし始めた。歳も取った。髪を切った。ネイルを変えた。薬も増えた。

仕事のおかげか一日、一週間のサイクルがやたらと早くなった。この勢いだとあっという間に余裕の102歳、デイビッドロックフェラーである。彼の享年が曖昧である。

 

 

さて、気分安定剤が三種類になったおかげで痩せてきた。単なる食欲減退である。

過食だなんだと嘆いていたころに比べれば食べる量は相当減った。というか下手すると夜には戻す程度には薬が効いているらしい。

戻すとさらに食べるので±0である。増えはしないのでそれはよろしい。

 

 

あとは今も昔も流行りのポケモンGOである。

わかるひとにだけわかればいいが、ミューツーがひかった。

 

 

 

 

そんなところで。

おつきみやま!

カレーの話

なんというか最近カレーばかり食べているためカレーの話を書く。

 

 

 

 

 

国内系列だとココイチよりはC&C派である。あれはよい、特に新宿本店が良い。次点で渋谷、明大前と永田町も捨て難いというところだ。明大前と永田町は駅中にあるため、乗り換えで使い、小腹が空いている際には是非とも御検討を。

意味がわからない人はとりあえずCC新宿本店で15時だか17時だか忘れたがイブニングAでも頼んで福神漬け、らっきょう、紅しょうが(今も無料か?)を大量にかけて食べてほしい。おいしい。

 

 

 

 

インドカレー系列だと昨日あれこれ言ったルクアヒマラヤもまあおいしいが、コスパ重視で四谷三丁目のエーワン、あちこちにあるシディーク、日本橋と初台にあるガンジス、ナンが食べたいなら安定のターリー屋だろう。

みなみにルクアはカードが使える。その他はどうだったかわからない。ターリー屋は基本的にキャッシュのみだったように思う。わからないが、ターリー屋の客層的にキャッシュで構わないのだろう。学生が多いイメージだ。

 

 

 

 

 

あとはロイホでカレーを食べればよいのである。あれはおいしい。

おいしいは正義。

多国籍の話

夏からたまに行くカレー屋の話である。

 

 

 

ルクラヒマラヤというネパール?タイ?インド?料理屋である。

https://www.google.co.jp/amp/s/s.tabelog.com/tokyo/A1318/A131810/13114913/top_amp/

タベログ?ぐるなび?のURLを貼っておくがもちろんキックバックの類はない。

 

 

 

ランチで使うもよし、ディナーならディナーで16時かそこらからやっているため、早めの夕飯に使うもよし、ディナー(本来の意味は?)に使うもよし、ちょい飲みに使うもよし、まあ妥当な金額でそれなりにおいしいものがで出てくる。

立地を考えれば安い部類だろう、確か1280円でカレー、サラダ、ナンorライスのセットがあった。

 

 

 

ちなみに言うと店員はいわゆるインド料理屋にありがちな「笑顔」で「フレンドリー」な感じはない。要するに接客に期待してはならない。

などと書いたものの、そもそも大した金を払わんにも関わらず「丁寧にもてなせ」という要求がさもしいのである。丁寧にしてもらいたければ☆のたくさん付いたレストランだか、料亭だか行けばいいだろう。お値段だってそれなりである。

 

 

決して貶しているわけではないため、悪しからず。少し調べたら二年前あたりの接客は相当よろしくなかったらしいが、少なくともわたしは不快になるほどではなかった。金額相応の接客をしてもらえたという感想だ。

さらに言えば、以前は接客で叩かれ気味であっても店を営業し続けられるということは「そこそこおいしい」ということの証左であろう。わたしの舌もまるまる馬鹿というわけではなかったらしい。安心した。

 

 

 

わたしが毎回食べているのはカレーである。毎回と表現したもののたしか4回行った。チキンティッカとモモも食べた。レンチンや揚げ物(揚げ物あるか?チキンティッカか?)の音がしたのも一興である。

ドリンクはなんとなくランチでついていなければわざわざ頼みはしないものの、直近ではラッシーをサービスしてくれた。接客がよろしくないと書いたものの、それだって日本人の視線なだけで彼等は彼等なりに客を覚え、リピートしてもらうための策を考えているのである。

 

 

 

まあ、ブログを書いたのはラッシーをもらったからだと白状しておこう。

ラッシー一杯の原価で140余人の読者のいるブログに書かれる、たいした益にはならないだろうが書かないよりは多少店に貢献してるだろう。

 

 

わたしのおすすめはガーリックチキンカレーの辛口である。

人と会うときは食べない方がいいことだけは述べておくため、あとは自己責任で。

 

 

 

腹がはち切れそう。

過食をどうにかしたいの話

どうにもならん。

 

 

 

とはいえ、どうにかなりつつはある。

自分でイラつくくらいに食べている自覚はある。はっきり言って発狂してしまいそうだ。来週だか、更に先だか、社会復帰したあたりで食が細くなればいい。

 

 

 

考えても仕方がないので。つかれた。

ぐるぐるの話

最近のブログはつまらん。

 

 

 

 

 

 

わたしのブログのことである。もともと自分のブログがめちゃくちゃにおもしろいと思って書いているわけではない。しかし、誰かの暇つぶしくらいにはなるだろうと思って書いている。

最近は書いていて1000字前後で着地もオチもなにもなくとも適当切り上げ、よくわからんままに投稿予約している。惰性か。つまらん。

 

 

 

 

 

ぐるぐるしているのは頭も体もそうである。躁鬱の混合期なんだろうか。噛み締めもひどければ、食べすぎて背中がずっと痛い。疼痛というほどではないかもしれない。膵臓だか脾臓だか意識の及ばない臓器が悲鳴を上げているような感覚である。やめてくれ。

 

 

 

 

 

ぐるぐるで調子が悪いと思って念のため熱をはかったら

37.4

うーん、微熱も微熱。

 

 

 

 

そんなところで、何かと調整が必要な雰囲気だ。

 

 

 

 

 

 

太るとやる気が出なくてだめだ。絞らんと。

花火をみたの話

ビアガーデンに引き続いて夏らしいことをした。

 

 

 

ビアガーデンが先だったのか後だったのかはもはやわからないが、まあ気にしていても仕方がない。

河川敷にビニールシートを敷くタイプの花火に行った。というか、予定が見えず観覧席のようなところを買っていいのか微妙だったからである。そもそもお金を払って花火をみたことがない。もはや乞食と言われそうだが、似たところがあるため大きな反論はせずにおく。

 

 

 

 

 

さて、花火はよかった。夏であった。

浴衣の男女が大量におり、泣き叫ぶ子ども、楽市楽座の存在しない的屋に並ぶ長蛇の列、光ってから時間差で届く破裂音、風下で感じる火薬の香り。

どれをとっても夏である。

 

 

愛を語るつがいがいれば、両親の愚痴を言い合う若人もいれば、子どもと花火の写真を必死におさめようとする父や母もいれば、無言で花火を凝視する我々もいた。

すべてが騒音、すべてが景色、すべてが花火の一部である。何か欠けてもいいし、何も欠けなくてもいい。

無職(とはいえ、今月からは会社員もどき)がたまには雑踏に混じってみてもいいだろう。わたしだってたまには景色の一部になりたいのである。

 

 

 

花火自体はそれなりによかった。今までで一番よかったものはどこだかわからないが、調布か葛飾か神奈川新聞、東京湾かそこらへんだろう。次点で流山だか三郷(同時開催か?)、足立、取手かたまがわ、更に下げれば隅田川と土浦である。

大曲も見たがうーん、混んでいた。同様に土浦、隅田川は激混みでむずかしかった。

 

 

 

 

電池がないため、こんなところで。

 

 

 

 

九月だし、なんかしら言い回しを変えていくか。

あぐれ

9月になってしまったの話

先に申し上げておくが、掲題はほぼ無関係である。

 

 

 

さて、9月になった。

ということは小中高校生の夏休み終了を意味している。何が言いたいのか?現在家庭教師で某3年生の授業を受け持っている。

要するに副業の話である。本業は守秘義務なのかコンプラなのかよくわからんとにかくあれこれうるさそうなので、基本的に書く気はないものの、副業についても生徒の特定が不可能な範囲でたまに書こうと思う。ちなみに言うとブログを万万が一生徒のご両親や生徒に見付かったとして対生徒保護者にもほぼフェイクでわたしの経歴は話しているし(資格の類は盛っていない)、ここにも本当のことをまるまる書くつもりもないため、物好きな購読者のみなみなさまにおかれましては「おおよそこんなことがあったのだろう」と適当な推測をして頂きつつ、読むなり止めるなりコロ助なりして頂きたい。

 

ブログのネタにするというよりは生徒を通して考えさせられたことに絞って書くつもりである。こどもの視点はなかなかに鋭いのである。

 

 

 

最近の授業でいうと、夏休みの始まりと終わりの話のときのことであった。

生徒「夏休みは始まらないでほしい」

わたし「どうして?」

生徒「始まったら終わりが来るから」

 

深い。ド直球で有無を言わせぬ哲学系の返答が来てしまい、思わず「それはそう」程度にしか反応ができなかった。こどもと思ってなめてかかると、彼らは意外と大人なのである。要所要所で「牽制」まがいの鋭い一言が飛んでくる。

こちらとしても気を抜けない相手方。

もはや歳の差こそそれなりにあれど、授業という土俵に立ってしまえばそれはもはや平等なプレイヤーなのである。開始の合図が鳴ってしまえば、講師も生徒もない。

「なぜ」「どうして」の純粋なぶつかり合いがそこに生まれるだけである。

 

 

わたしはどちらかというと攻めの講師のため、生徒の疑問質問に対しての解説もそこそこにするものの、大抵は「なぜこの回答にしたのか」「ここはどうしてなのか」「なんで」「どうして」「どういうこと」ともし他人から見たら「詰め」の手前に見えるようなこともたくさんこどもに投げかけている。

そのたびにこどもは彼らの持つ知識をフル活用して自身の言葉で表現や説明をしようと試みてくれるのである。個人的にはこの質問し本人に説明させる方法が最も本人の学習定着度を早くできるものなのではないかも思ってある。

 

 

 

 

長く待ってきたのでそんなところで、家庭教師つけられるっておかねあるなあ。、

 

 

 

 

 

用意は周到、準備は万端、頼れるものは使い倒せ。

よそはよそ、うちはうち、分相応な人生を。

あぐれ