おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

要るものと要らないものの話

 ミニマリストというわけではない。

 

 

断捨離でもない。

そんなことばが流行る前からとっくにわたしは自分の中の「要る・要らない」を選別していた。おかげで実家でさえわたしの部屋は生活感もなく(というよりもはや父親が勝手に捨てるので改めて買ってもらうのも面倒だった)、大抵人を呼んでも「死ぬのか?」「物の少ない部屋だね」くらいの反応であった。

 

 

今の部屋ももちろんものは少なく、人間関係もわたしの要らないものは捨てている。こんなことを言うのはどうかと思うが、今となっては双極の病気持ちのわたしであるものの、それなりに時間を共有する人間を選べる側であることが多かった。

ゆえに「友達が少ない・いない」という悩みを抱えている人の気持ちはいまいちわからない。人の顔色を窺うというのも父親くらいで、あとの大人達は適当な笑顔と従順そうな顔をしていれば問題なかった。友人は勝手にできたし、要らん知人とはなるべく距離を置くようにしていた。

人間はその周囲の環境で、性格やその人の癖が形作られると思っているため、一緒にいる人間は選んだ。嫌な人間に思うかもしれないが、わたしはどんな状況でも自分を保っていられるほど強くはない。そこらへんにいる凡人なのである。

 

 

横道に逸れたので話を戻そう。

要る・要らないというのは単純に物理的な「モノ」のことだけではないということだ。人間関係・思考・自分の体の一部もしくは全部・仕事・時間・金や感情さえも要るものと要らないものがあるはずだと信じている。

必要ならばいつだって要らないものは切り捨てていく心積りで生きている。まるで目的と手段が入れ替わってしまった文だが、これはこれで今のところ要る思考なのでとりあえず置いておく。

 

 

問題は認知の歪みである。

他人は基本的に信じられないし、男性はこわいし、自分の自信は過剰であるのか否か、付き纏う貧困妄想を取り払うためにはどうしたらいいのか、労働に身を潰してしまう癖はなおるのか、カウンセリングがいいのか認知行動療法がいいのか、まあもろもろの悩みは尽きないものである。これは要る部分もあるし、要らない部分もある。

 

 

 

なかなか一筋縄ではいかないのが非物理的な物事である。

 

 

 

 

そんなところで、要らないものは徹底排除。

 

 

 

 

用意は周到、準備は万端、知識は財産。

基本的には専守防衛

みなみなさま、分相応な人生を。

あぐれ