おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

死生観の話

いつ死んでもいい。

 

 

 

これはわたしが中学に入るか入らないかのころから思っていることである。

当時のわたしは自分で言うのも憚られるが、いわゆる優等生で全ての学年で学級委員を務め、音楽祭では指揮者と実行祭委員会の会長、体育祭では応援団長、生徒会にも入り副会長を務めた。以前の記事でも書いたが、地方よ公立中学などというものはほぼ動物園かそれに準ずる無法地帯で雑な言い方をしてしまえば、一部を除いて馬鹿しかいない。

端的に表現すると素行良好で成績上位に食いこめば、地元の自称進学校に行くのは容易い。当時のわたしは臨床心理士か薬剤師、もし才があれば物書きになりたいと思っていたので、大学や院を含めて最高学府には6年通う心積りでいたし、将来の展望も決して暗いものではなかった。

 

しかしながら、いつだって「どうやって死ぬか」という思考が離れたことはなかった。中学の卒業文集には、将来の自分を場合分けして臨床心理士になった場合、薬剤師になった場合、作家になった場合、それになれなかった場合、結婚や子育てをした場合、6つほど書いたと思う。締めの言葉は必ず「~をして死ぬ」にした。

自死を選ばずとも、人はいずれ死ぬ。中学生ながらにそれくらいのことはわかっていたし、最短の予定では17でバイクで事故って死ぬというものであったが、運がいいのか悪いのかそれは免れ今に至る。

 

死ぬのが怖いか、死後の世界が存在するのか、親不孝かどうか、そんなことはどうでもよかった。強いていえば父親に殴られているとき、家から追い出され車庫の中で震えて夜を明かしたとき、理不尽に怒鳴られ私物を壊され捨てられているとき、心の底から死にたいと思った。もっと正確な表現をすれば、死にたいというより、死なせてほしかったし、何なら殺してほしかった。

苦痛から逃れる術はそれくらいしかわからなかった。ようやく実家と疎遠にし、地面に這い蹲り、泥水を啜るような生き方しかできなかったとしても、幾分かは当時に比べてマシになった。それでも、やはりいつ死んでもいいという思いは変わらない。

 

 

 

わたしが自殺ではなく、自死ということばを好んで多用するのは、自らを殺すのと自ら選んで死を選ぶのとでは意味合いが異なると思うからだ。

自殺というとどうしても追い詰められてそれ以外の選択をせざるを得なかったような印象を受ける。実際、自殺者の遺族の会はそのあたりの配慮からなのか詳しい事情はわからないが、「自死遺族の会」というような名称を使われることが多い。

 

 

わたしは物事を選択するときにかならず

・行う

・行わない

・死ぬ

の3つを最低用意してある。

というのも、死ぬが用意されていると気持ち的に楽だからだ。今まで選択したことは1度、未遂自体は2回だが、1度目の詳細については記憶が定かではないため、自殺未遂だったのだろう。

そこまで追い詰められる前にもし何かの不調がある人は、内科や耳鼻科にかかる気軽さで心療内科か精神科を訪れてみてほしい。処方箋を書かれるだろうが、調剤薬局に行くもよし、行かないもよし、その薬を飲むもよし、お守り替わりに持つだけもよし、選択肢が増えるという意味で他人への相談料くらいのノリで心療内科、精神科の医者に悩みをぶちまけるという使い方もある。金はかかるが、そこらの占い師よりは医学的知識に長け、占い師と異なり、領収書さえとっておけば医療費控除で還付の手伝いになるかもしれない。まあ、この話はこのくらいにしておこう。

 

 

 

著名な作家たちは大抵が自死を選んでいる。彼等は博識で思慮深く、そこらへんの人よりも考えごとが多かったのだと思う。

考えれば考えるほどに人生に意味はなく、終着点が死である以上はその過程に意味を見いだせる人と異なり、死の起点をいつにするべきか、ただそれだけの話である。わたしもほぼ同じで生きていること自体に意味はない。

いつ死ぬべきか、考えるのはそれだけである。

 

 

 

 

果たして自死は悪いことなのだろうか。

 

 

 

 

そんなところで、生き方というのは他人に迷惑をかけない限り、自由であり、わたしも他人も自分の人生の主人公はいつだって自分である。

 

 

 

 

 

用意は周到、準備は万端、凡事徹底。

分相応な人生を。

あぐれ