おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

皮膚科に行ったの話

「古傷が痛む」という言い回しがある。今までいまいちわからなかった。最近は歳を取ったせいか、なんとなくわかるようになってきた。

 

 

以前勤めていた会社で倒れたことがある。打ち所悪く、瞼を3針縫い、頬に大きな痣と切り傷、擦り傷ができた。1ヶ月少しの間、お岩さんになっていた。当時は「もうこんな顔じゃお嫁に行けない」と絶望したものだが、安心してほしい。いまだに嫁には行けていない。言わずもがな杞憂であった。

今年に入ってから、頬の擦り傷痕が体調が優れなかったり、体温が上がるとやたらと熱を持って、痛痒いような、腫れるような感覚になることが多くなった。化粧をしてしまえば、頬紅で隠れる位置ではあるが、そんなことをせずともどうにかしたい。朝イチで皮膚科に行った。

 

処方はヒルドイド、ケトコナゾール、ビタミン・ビオチンの粉末、ステロイド軟膏である。ビタミン粉末は不味くはないが、おいしいかと聞かれると「?」というビタミンの味がするもので、皮膚科いわく「肌がそんなに強くないかもしれないから、内側からもアプローチしてみましょう」とのことだった。うーん、昔の肌は割と何もしても平気だったが、季節の変わり目程度で古傷が荒れるような年齢になったという事実が悲しかった。少しずつ歳を取っている自覚はある、ただ自覚と時間の経過に乖離がある。もっと言えば、精神の幼稚さに肉体の変化が伴っていないということだ。

 

きれいな書き方をした。要するに老化する自分の身体をうまく受け止められないでいる。古傷の荒れなど、きっと序の口なのだろう。やがて白髪を染め、目尻の皺やほうれい線を消す努力を朝晩行い、膝やその他の関節が何の原因もなく痛むのだろう。脈々と受け継がれてきたおねえさま方の技術を自分が継承する日もそう遠くはないのだ。

不老不死の八百比丘尼は美しさを保ったまま入定したが、それも愛別離苦に耐えかねての印象である。人間はそれぞれが平等に時間と共に成長し、老いていくべきものだという教訓なのかもしれない。しかし、わたしは頭でわかっていつつも、身体が老いるのはどうしても抵抗がある。見苦しくとも足掻いておこうと思っている。

 

 

さて、皮膚科の話に戻る。朝イチの受付時間に到着したものの、待合室はご高齢の方々で溢れかえっていた。一体何時から受付開始していたのか、老人の社交場は整形外科と相場が決まっていないのか、そもそも老人たちは皮膚の何が気になるというのか、頼むからくだらないシミや痤瘡でいちいち診療の枠を潰してくれるなよ。わたしはともかく、赤子や幼い子を持つ親がかわいそうである。

医師も生い先短い老人の皮膚の治療がしたくて医師免許を取得したのだろうか。人間の価値は残りの寿命のみではかることはできないとは思いつつも、高齢者ドライバーが小学生の列に突っ込む事件を見たような後味の悪さが待合室に充満していた。まあ、老いを受け入れられないわたしも同類なのかもしれない。とは言いつつも、顔の荒れは他人に要らぬ心配をかけ、または不快にさせるかもしれないので、整った状態を維持する努力はしていく。(皮膚科通いの言い訳である)

 

 

 

とりあえずは処方されたもろもろを規定通りに使っていき、難しそうならまた皮膚科に相談するつもりである。

 

 

 

 

ビオチンが薬に入っててもたまごはたくさん食べるよ。

ビタミンが薬に入っていてもキレートレモンはたまに飲むよ。

 

 

 

 

 

つるつるむきたまご。

あぐれ