おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

新世界よりの話

ドヴォルザーク交響曲第9番の副題である。

 

 

昨日は薬切れから半ば無理矢理寝たが、言うほど誤魔化せるわけもなく、いつも以上に睡眠が短くひたすら寝たり起きたりしていた。

記事を書いているのは、もう寝るのを諦めたからだ。現時刻は4時。立派な早朝だろう。

 

 

 

朝、夜明け前というのは日の出の瞬間から世界が生まれ変わるような気持ちにさせる。果たして新しい朝なのか希望の朝なのか、わたしにはさっぱりわからないが、暗いところを光で照らすというのは、キリストの父親の時代から変わらぬ世界創造のセオリーであるらしい。「光あれ」と毎日休まず回り続ける地球は少し休んでもいいかもしれない。自転が止まって地球上の諸々が壊滅しても、それを知る人がいなければ、地球は未来永劫人類が蔓延る手狭な惑星のままだろう。

「対象や事象を認知する人間がいなければ、その対象や事象は無に等しい」というのが昔からのわたしの論である。たぶん探せば似たようなことを言っている哲学者だか、科学者がいるんだろうが、探したところで論の補強くらいしかできないのであれば特段知りたいとは思わない。新しい世界が毎日平和に訪れようとも、わたしの時間は有限なのだ。

無限の命のあった八百比丘尼はどんな気分で日々の移り変わりを感じていたんだろうか、800年も生きていれば桜が咲き、若芽の緑に圧倒され、山肌の紅葉や降り積もる白い雪を見ても、ただの年中行事と化してしまっていたんだろうか。まあ、800年ないしそれに近い年月生きていればおそらく悟りもするだろう。死ねば仏になるが、それだけ長生きしていれば人間基準で言うところ、ほぼ神と表現して差し支えないだろう。何を書こうとしているのか忘れてしまった。

 

 

 

新世界よりの話である。

今日も変わり映えしないありがたい新しい日が始まっている。

 

 

 

あまり悲観せずにいきたいものである。

 

 

 

 

今日がいちばん若い。

あぐれ