おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

素敵だと思うものの話

かわいい、かっこいい、きれい、まあそれなりに褒めることばはたくさんある。

 

中でもわたしがいちばんすきなのは「素敵 」ということばだ。素敵にはいろんな意味が詰まってる。モノの外側だけじゃない雰囲気を纏っている。

そして、完全な主観で許されるのが素敵だと思う。

整っていたって整っていなくなって、自分が素敵だと思えばそれは素敵なものなのだ。他人に自分の気持ちを否定することなんてできない。口で何を言われたってそんなの表面で受け流せばいい。受け流せないなら「お前は素敵じゃない」って喧嘩をふっかければいい。もちろんわたしはそんなに好戦的じゃないし、わたしの周りにもわたしの感性を頭ごなしに否定するような無粋な人間はいない。わたしは周囲の人間に恵まれているのだ。素敵な環境で生きている。

 

 

どんなものを素敵だと思うか、これを聞かれると答えに詰まる。ただ、大抵は自分が努力を重ねても到底届くことが難しいと思えるものや関係性にそういう感情を抱くことが多いように思う。

とはいえ、今日青空をキャンバスにした2本の飛行機雲も素敵だと思ったし、少し離れたおさんぽコースのつつじの咲き方も素敵だと思う。まあ、素敵に貴賎はないのである。きらいなもの、にがてなもので溢れている人生より素敵なものをたくさん見つけるヤツ人生の方が毎日楽しくなるに決まっている。言わずもがな、わたしはきらいなものもにがてなものも大量にあるので、そういうものとは適度な距離を保ちつつ、ときにやり過ごし受け流し笑顔で対応しつつ、日常の素敵に心癒されながら過ごしている。

 

 

 

 

昨日は子どもの日だった。

近所の公園でたくさんの鯉のぼりが泳いでいた。こういう季節のものも素敵だと思う。小売や飲食にありがちな期間限定と違って、慎ましく、それでいて普遍的だ。毎年毎年変わらぬ穏やかな顔をしてそこにいる。そういうものがこれからも初夏の訪れを知らせてくれるとうれしい。

 

 

 

 

そういえば、今日は久しぶりに風車を持った子どもを見た。無邪気に走っている姿が幼い頃の友人達の姿を思い起こさせ、風を受けてくるくる回る様がとても素敵だと思った。

いつからか、純粋さや無邪気さといったものは、少しずつなくなったのか隠すようになったのか、自分にないものを持った少年がやはり素敵に見えた。羨望まではいかないものの、大人になるという選択は子どものもつ純粋さや無邪気さを捨てていくことなのかもしれないとぼんやり考えた。選択したくなくても、大人には勝手になるが、問答無用の大人化はこちらの選択肢によらず選択できなかったものを捨てて拾わせないような仕組みになっている気がしまう。

 

 

 

 

子どものまっすぐな心を切り捨てたり、奥底に追いやることがあっても、自分の感性に素直に生きていけたらいいよね。

 

 

 

 

かざぐるまぐるぐる。

あぐれ