おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

血を抜くの話

瀉血のある時代に生まれたかった。正確に言えば、現代でも多血症や肝炎の治療で瀉血が選択されることもあるらしいが、メジャーな治療ではない。

東洋医学の考えをくむ医師などはメディカルカッピングなどで血を抜く行為をするものの、やはりこれも医学的根拠に乏しく、メジャーな治療ではない。自費診療なのだろうか。効率的ではないやり方が気に入らなくて詳しくは調べていない。

 

 

 

さて、血を抜くの話である。

わたしは血を抜くのが好きだ。リスカはしない。大した量が取れないからだ。ではどうするか。単純明快で自己採血をするのである。今となっては規制されていて入手困難だが、医療用規格のニードルも手に入らないことはない。もちろん滅菌済みだ。止血帯やらなんやらはすべて自宅のもので代用できる。18G前後のニードルがあれば充分なのである。

ここ4年くらいはしていないが、血を抜くと自分が薄まった気がする。薄まった分だけ、自分がきれいになっていく感じがする。実施は水分を取ってしまえば循環している血液など成分はともかく量は戻ってしまうのでほぼプラシーボ効果のようなものだが、自分が薄まれば薄まるほど生きやすくなると思う。

 

 

 

献血に行けという話はもちろんわかる。行きたい。しかし、薬を3日抜いて行かねばならない。毎食後のデパスと頓服のワイパックスがお友達のわたしにそれは難しい条件である。夜には抗うつ剤も飲む。まあ、薬まみれの血液でもほしいという人がいるのであればいくらでも提供するつもりである。減ってもどうせ血は作られる。

目の前で自分と同じ血液型の人の輸血が必要になったとき、薬のことなんて忘れて提供を申し出るだろうし、そういう場ではどうするのが正解なんだろうか。わからない。

 

 

 

最近はやはりまた血を抜きたいなーと思っている。ペットボトル1本分くらい身体から出ると、すごく気持ちが楽になる。

「親から貰った身体が」云々

こう言う奴等が死ぬほどきらいだ。両親の遺伝子が気持ち悪すぎて、血を抜いても抜いても足りないくらい自分に吐き気がする。両親の遺伝子とは言うものの、父親自体は血縁関係にあるのか正直疑わしい。いずれにせよ、汚い血、汚い体であることは確かだ。このことを考えるとこの世の終わりが来てほしいと思うほどに気分が最悪になる。

 

自分の肌も髪の毛にも満足しているし、顔にも概ね満足している。でも、親の血が流れていると思うととにかく気持ち悪いことこの上ない。相反する感情をうまく処理できるのが、血を抜くことだったのだ。

 

どうせどこの病院でもやってくれるわけはないが、せっかくならメンヘラの気分の落ち込みの対症療法として瀉血を認めてほしいものである。そのあとセロトニンでもオキシトシンでも効きそうな注射をばんばん打ってくれて構わない。

 

 

 

 

だめだ、今日も目がぐるぐるしてきた。

 

 

 

ぐるぐるぐるてん。

あぐれ