おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

読書の話

最近は調子がいいので本が読めるようになってきた。字の認識がつらくなったときに我が家の本棚はほぼ全てきれいになってしまったので、兄弟から借りた本をまた読み返している。しかも上巻は返してしまっているので下巻である。まあ、字が読めるというのは幸いであり、字を書く、入力する、自分のことばを書き連ねることができるというのも幸いである。

 

 

発病が大学4年の卒論提出の時期だったので、当時を思い出すと今でも担当教員に頭が上がらない。これまた幸いなことにわたしは臨床心理のゼミだったので、教員連中の理解が非常にあった。つくづく周囲の人に恵まれていると思う。

話は少し飛んで前に高校の同級生との卒業旅行の記事を書いたが、大学の同級生とは行けなかった。誘われたがとにかく行ける状況ではなかったので辞退した。当時はそれで友人がいなくなると絶望もしたが、それくらいで亀裂が入るようなこともなく今でもときどき食事に行っている。本当に周囲の人間に恵まれた。

 

 

 

さて、読書の話である。

今となっては症状次第で字も会話も理解不能となってしまったが、基本的に本を読むのは好きである。正確にいうと、活字を見ているのが好きなのだと思う。本に限らず、経済誌でも他人のブログでも自分の知らない表現や知識が増えるのは楽しい。それに字を読んでいる間は余計なことを考えなくて済む。特に実家にいるときはよく本を読んだ。図書館図書室にもよく行った。典型的な根暗だった。

 

 

今まで読んでよかったと思う本はたくさんあるが、特に挙げるとすれば

遠藤周作『海と毒薬』

伊坂幸太郎『死神の精度』

ミヒャエル・エンデ『モモ』

あたりである。

小説ではなかったが、日本軍がなぜ負けたのかを経済学的視点から考察している本もおもしろかった。要するにサンクコストと割り切れるか否かという話だったが、投資分を回収するためにさらなる損失を出してしまう当時の日本軍の選択は云々という内容はわたしの思考にはない論だったので、この本を読んでから物事の決定をするときはたまに負ける日本軍にならないようにどうするかを考えるようにしている。まあ、これは大袈裟だが、無駄金を「勉強代」と割り切れるようになったのは、この本を読んでからである。

 

『モモ』は確か小2のときに読んだ。よくわからないことばが多くて何度も辞書を引いた。これは近所のお姉さんから貰った本で、とても気に入っていたが、例に漏れず理由なく激昂した父親に捨てられてしまった。そのときは本を捨てられた喪失感や靴所よりも、本を譲ってくれたお姉さんへの申し訳なさと裏切ってしまったような気持ちにしばらく苛まれた。ちなみに言うと、そのお姉さんは桜蔭に通っていた。同じ本を読んだから通えるはずはなくとも、わたしも同じような経験をしたかったのだ。お姉さんの影響で中学受験をしてみたい旨を母親に伝えてみたものの、「行ってどうする」とあしらわれ、母親への話はもちろん父親に伝わり、問答無用で殴られた。別に桜蔭に行きたかったのではない、中学受験というものがしてみたかったのだ。片田舎の両親は中学など地元の公立でいいという固定概念があった。金がないから受けられないわけではない自分の環境を恨んだ。

 

 

 

話が逸れてしまった。本に関しては古典文学もそれなりに読んだ。中学や高校の教科書に出てくるようなメジャーなものは大抵原文でも現代語訳も読んでいたし、模試の古文もほとんど知っている内容が出た。本を読んでいて得をしたのはこれくらいである。

 

 

 

最近は正直どの本に手を付けていいのかわからなくなってしまった。これはずるいと思うが、他人から本を借りるようにしている。選択の重圧から解放されるのと、その人の一部を貸してくれた本が形成しているかもしれないと思うと、なんとなく興味が湧くからだ。

 

 

 

 

こんなところでとりあえず兄弟から借りた本の下巻の続きでも読むことにする。

 

 

 

 

まぐれはずれ。

あぐれ