ガストの話
すかいらーくグループで中高生御用達のファミレスである。
わたしも中学・高校と住人かのごとくお世話になった。
今日はメンクリ帰りに耳鼻科に寄って、このまま帰るのもなんだかなというところで食べに来た。今日も外回りの合間を潰すリーマン、そもそも仕事をこなしているのか謎なリーマン、そしてお前らは大学に行けという学生とちょっとの子連れ主婦で溢れている。
最近のガストが全てそうなのかはわからないが、わたしの最寄りのガストはほぼ全ての席に充電用のコンセントがある。
混雑時は90分制とはいうものの、乞食ワーカー、乞食学生、乞食には最適な環境だ。ちなみにわたしは基本的に充電器を持ち歩いていないのでこの施しを受けられない。
個人的に思うのはこういう類のファミレスで友人ときて淡々と作業を進められる人間は、新人類なのではないかということである。わたしは旧人類なので、友人なんかと来た日にはドリンクバーをこれでもかというほど飲み、ああでもないこうでもないという何の役にも立たない話に花を咲かせ、「あー、暗くなってきたし帰るか」という雰囲気でこの上なく堕落した時間を過ごしてしまいがちである。
高校のときが特にそうだった。
「模試の対策をしよう」
もっともらしい理由を付けて友人とガストに行く。テキストを広げ、ドリンクバーと山盛りポテトフライを頼み、炭酸と無糖のお茶を持ってきて2ページほどテキストをめくったらもう勉強はおしまいである。あとは、紙ナプキンで折り紙をしてみたり(ガストの人、すかいらーく、すみませんでした)、テキストの余白に教員の似顔絵を書いたり、道行く人に手を振って何人が振り返してくれるのかという遊びをするのである。手を振る遊びは人を選ばないと相手が店内に入ってきてしまう、2度ほどあって本当に困ってしまった。困るどころか、迷惑なのは手を振られた方である。赤の他人なのだ。高校生の戯れというのは恐ろしい。
なぜマックではなくガストだったのか、居心地の差である。もっと言えばドリンクバーと椅子の硬さである。近所のマックの椅子は「ごゆっくりどうぞ」という言葉とは裏腹に「早く帰れ、食べなくても帰れ」と言わんばかりの椅子の硬さだった。そしてドリンクが飲み放題ではなかった。いちいち水を頼みに行くのも気が引けた。その程度の図々しさしか持ち合わせていない我々にとって、やる気のないバイトと治安の悪い近隣住民が醸し出す絶妙なバランスがガストを最上のファミレスと思わせた。
なぜサイゼではなくガストだったのか。地元にサイゼがなかったのである。悲しきかな田舎はそんなものである。池袋のサイゼに生まれて初めて行ったとき、これが都会なのかと思った。めちゃくちゃに狭かった。あとでわかったことだが、サイゼはどこの店舗をべらぼうに狭かった。狭く、安いところがサイゼである。最近、地元にもサイゼができたらしいが、知人いわく「ガストやココスより狭い」とのこと。安さとは狭さなのかもしれない。
平米と客単価を考えれば当然だ。電車だってそろそろ二階建てにでもなるのではないだろうか、通勤時二階から飛び降りるサラリーマンが続出するだろう。通勤は古より伝わる日本のエクストリームスポーツなのだ。切腹、相撲、電車通勤。日本の伝統文化はいつも痛みが伴う。そう、やわな人間は満員電車に乗っても死ぬだけである。そして、猛者たち揃いの満員電車は4月の上旬、降りられないお上りさんたちで大混乱するのである。4月の電車はいつだって乗り慣れていない電車ビギナーたちが百戦錬磨の通勤通学マスターに殺意を抱かれる。容赦のないかわいがり、八百長はなしである。背中から電車に乗れ、ドア付近に立っていたら一旦降りて降車する人を優先させろ、リュックは黙って前に抱えろ、何も出来ていない。これは義務教育で教えないから悪いのだ。文科省の怠慢である。しかしながら、皺寄せはいつも若い人たちへ行く。ゆえに五月病になる。もちろんうそだ。わからなかった人は五月病をWikipediaでよく読んでほしい。
五月病になる前にガストに行くのである。もちろん治るはずがない。ガストには取り立てて絶賛するものもないが、とりあえず安いし、腹は満たされる。腹が減っては戦はできんし、五月病になりそうなら自炊の準備も皿洗いも全部めんどうになってしまう。面倒なことは金がある限り外注するのだ。金を払って便利さを買う。資本主義はすばらしい。
自炊信者にはわからない理屈だろうし、家事労働や育児は家の人間がやるべきだという宗教の人間にも理解は不能だろう。自分でやりたいやつはそうすればいいし、金のないやつも自分でやるしかないのだ。世の中とはそういうものである。とはいえ、自分の宗教宗派が優れていると信じていても、他の宗教を否定する理由にはならない。一神教と日蓮宗はいつだって排他的だ。攻撃的な方々は攻撃対象がいないような自分の宗教とともにひっそりと離島にでも移り住んでくれ。自発的島流しである。ゴルゴダの丘はそれぞれの離島に作ればいいのだ。要らぬ宗教論は敵を増やす。これくらいにしておこうと思う。
まあ、みんな祈る神や仏がいなくなったらガストに行って激安のハンバーグか山盛りポテトフライとドリンクバーでも頼んで、やたらとなる呼び出しボタンの音に耳を傾ければいいのである。かわいいバイトの学生が見付かるかもしれない。
これだけガストのメニューで山盛りポテトフライを連呼しているわたしだが、正直自分で頼んだことは一度もない。友人が頼むから食べるのである。あれがおいしいのかおいしくないのかよくわからない。大体がケチャップ味だからだ。
書いてたら2000字超えちゃったし、キレートレモンのために帰ろうかしらね。
あぐれ