おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

キノボリガメの話

カメレオンを買う機会がないのでキノボリガメに思いを馳せる。

キノボリガメは南米原産、特徴は勿論カメの甲羅を持ちつつもカメレオンが如き緩慢な動きで木に登ること、つまり立体的な移動ができるという点に集約するだろう。
キノボリガメは他の陸生のカメ同様、適度な紫外線ときれいな水、野菜と果物を必要とする。

なんといってもキノボリガメの愛くるしい点は木登り後に適切な休憩地を見付けて昼寝をする姿である。最もよい飼育環境を作るために苦心する人が続出しているとのことだ。

寿命はおよそ15-40年、飼育下ではさらに伸びるというが飼育例が少なく正確な数字は定かではない。正式な記録ではないが、飼育下で74年生きたという話が19世紀のカンボジアに残っている。
卵生であり、わずか数センチだった幼体は3年ほどで生殖が可能なほどに成長する。その後も脱皮を繰り返しながら成長していく。キノボリガメの特異な要素のひとつとして10歳以上の成体は木登りをしなくなることは有名ではないため、今後飼育を検討する方は頭に入れておいていただきたい。。
大きな個体が木登りをしないことについては諸説あるものの、足で木を掴み、大きな甲羅と自重を支えることが困難になる説、そもそもある程度育てば外敵が減るため木に登る必要がなくなる説など、さらに観察し研究の余地がある点もキノボリガメ飼育の醍醐味である。




ここまで書いたけど、キノボリガメは存在しません。
今からキノボリガメの認知度をあげる活動をしていきます。
読んでくれた方、お疲れ様でした。


そんなところで。



かみなりぴかごろキノボリガメ!

眠剤を飲まなかったの話

心の底から後悔した。
民間療法的な手段で寝ようと思い立ち、眠剤を飲まなかった。あほである。



試したものは
・紙の本を読む
・数を逆に数える
・呼吸のときに数を数える
・認知なんとか連想法
あたりである。

一晩まるまる潰してしまったので処方薬が出てる人たちはおとなしく薬を飲んで寝るのが良いということだろう。

眠れないと思うから眠れないのか、薬を飲んでいないことが気になって眠れないのか、朝が来る焦りから眠れないのか、とにかく眠れなくて時間が長くてつらかった。
無論、昼寝はできなかった。いい加減にしてほしい。


あれこれ書こうと思ったけど、眠くて気が散るのでまた今度。



ぬるぬる七夕ジラーチ

メメントモリの話

唐突に希死念慮が高まることがある。
そんな内容を書くかなと思ったため、表題がメメントモリである。
厳密には生きることを前提とした云々ということがあるかもしれないが、生きることを前提に人生を組み立てていないため却下である。


ここのところ気分安定薬が全く出ていなかった。
出なかったことについては、もはやどうでもいい。
どうでもいいが、薄ぼんやり予想していた「いつか」が最近来ているというだけのことである。



こういうときに思うのは

薬を飲まなければ自分の感情を制御出来ないのか
結局また増薬するしかないのか
具体的な自死の方法は何が最も効率的か
今まで成功した人達はどのように決行したのか

大体この4つである。



服薬についての絶望は常日頃からあるため、ひたすら諦念に徹しているが、具体的方法を探すとなるとなかなか難儀する。
投身が楽なことには変わりないらしい。位置エネルギーは偉大である。
縊死を想定した場合は、部屋のどこに紐を垂らすのか、そんな最適な場所が我が家にあるのか、なさそうで仕方なくベランダの手すりに紐をかけて死刑よろしく首に輪をかけつつそのままベランダの外へ身体ごと投げ出して頚椎を折りながら全うするのが最も現実的である。
いずれにせよ、屋外になってしまうため目撃者は軽い衝撃を受けるだろうが人生100年、生きていれば死ぬ人を目撃することくらいあるだろう。その日は運が悪かったと思ってぜひ一日を諦めて過ごしていただきたい。無論、わたしは死んでいるため責任は取らないし、取れない。

過剰服薬はどうなのか、という話もあるが、屋内でどうしても遂行する必要がある場合のみ実行する程度の優先順位である。
理由は、実現可能性が低いから。
手持ちの強めな薬を軽く挙げてみても
ベゲタミン100錠低度
サイレース70錠程度
レボトミン50錠程度
アルコールを入れたとしても圧倒的に少なすぎる。
あともう少し減量して薬の回りをよくしつつ、デパスマイスリーベンザリンコントミンその他手持ちの薬を投入しても、よくて2,3日意識がなくなるくらいで、後遺症なく社会復帰すればよいものの最悪の場合は横紋筋融解症で苦痛と共に入院生活である。
完遂できなさそうなことはしたくないので服薬で実行したい場合はもう200錠程度レボトミンあたりを足しておきたい。

ああ、でも若いときに失敗したのは肝臓の機能がそこそこよかったからで、もしかしたら今のわたしなら以前よりは率が上がっているかもしれない。
あくまで可能性の話である。




もしくは、もう一層のこと働くのも院に行くのも全てやめて入院してみるという手である。
言わずもがな今以上に人生は手に負えないことになるが、そもそも自力でどうこうしようと考えるからこの有様なわけで他人に全て委ねてしまうというのもある種の選択肢のような気もする。
しかしながら、精神科病棟の状況を漠然と知っているため正直に言ってしまえばあんなところで生き長らえるなら、死んだ方が精神衛生上よさそうである。
かなしきかな、日本の精神科医療。




投身と縊死、迷うところではありますね。



こんなところで。




死は救済。

お酒の話

アルコールについてである。


基本的にお酒は飲めるが、極力飲みたくない、飲めないふりをする、ということが多い。
理由はとにかくアル中だった父親を思い出して最悪の気分になるからである。ゆえに自宅にも嗜好品としてのアルコールは置かないし、無論宅飲みもしない。

成人してからというものの、やたらと飲み会が増えた。まあ、アルコール解禁になるため、当然といえば当然である。
ちなみに心療内科に通院する前もやはりお酒はすきではなかった。すきではない理由は単純に飲む理由がわからないからである。
下戸ではない。ただ、飲んでも楽しくないのだから飲む意味はやはりわからない。

さらに心療内科に通い始めてからは薬の効果が強く出過ぎてしまう関係で余計に酒類を飲むことがいやになった。
自分の許容量がわからなくなることが苦痛のためである。
会社関係の飲み会は致し方なく乾杯だけ付き合うことにしているものの、正直なところ私的な用事はあまり飲みたいと思えないのがここ7年くらいの状況である。


大人になって「遊び=飲むこと」になってしまった友人も何人かいる。この類の友人らとはなんだかんだと理由をつけて疎遠になってしまった。いちいち薬の服用を説明することも面倒であるし、現場でアルコールを勧められて断るのもまた面倒である。



こんなことなら中途半端に飲酒のできる人間ではなく、はじめから下戸でありたかったとさえ思う。
わたしは人並みに飲酒ができるものの、きょうだいやアル中の父親、母親は下戸である。父親はアル中だから正確には下戸ではないのかもしれないが、飲んで顔が赤くなる時点で下戸でよい。そういう輩は飲まなければいいだけの話なのに飲酒に逃げる弱さなのか、逃げなければやっていられなかった環境なのか、とにかく実家の人間の中でまともに飲酒をできるのはわたしだけである。
まあ、これはいつぞや書いたかもしれないが遺伝云々の話になってしまうので割愛しておくことにする。



ときどき飲酒をしている人間が全て父親に見えてしまう。酒が飲めるということはアル中になる可能性があるということであり、アル中は半分人間ではないのでわたしはそういうものを見たくない。
とにかくほぼ10割方父親のせいで酒がきらいになったというわけである。

喫煙に関してはそこまで気にならなくなってきたが、パチスロ関係もあまりすきにはなれない。
どれもこれも父親がやっていたことで、趣味で楽しんでいる人に罪はないが、すきではないものを否定される筋合いは無いので、そのあたりはしばらく変えられそうにない。
この歳になっていまだに父親の呪縛から逃れられないのも我ながら情けないと思う。心療内科でよりよい認知行動療法でもしてくれれば少しはまともになるかもしれないが、時間がかかって仕方ないだろう。



何が言いたいかと言うと、頭の中が酒の割合の高い人とはなかなか仲良くなりたいと思えないということである。



酒好きもわたしとわざわざ仲良くなろうとは思わないだろうから、棲み分けということでよいと思う。




そんなところで。






久々の夕立はお出かけ前の道路の換気。

勤労にいそしむの話

漢字にすると机上の上と同義である。
しなくても同義である。



一丁前に感動するような話題を書いておきながら卒業式は出なかった。
イベントごとには縁がない思考らしい。こればかりは致し方ない。来世があれば来世に期待したいところだが、卒業式の類は基本的に出ないか、別場所で待機する仕組みが人生に組み込まれていそうなのでそのあたりは期待しないでおく。


さて、掲題の通り、いつの間にやら働き始めた。正社員は今のところ飽きているため今回は派遣を選択した。
文字通り、驚くほどぬるい環境である。
全てがぬるい。まだ個人の飲食店のアルバイトの方が厳しいのではないかと思われるぬるさである。

やむを得ない理由で派遣をし続ける人がいるかもしれないが、正直なところあんな働き方していたら脳味噌の端から腐って爪先まで傷んでしまうと思う。
要するに特段続けたいと考える理由のない働き方だということがわかった。わかっただけでも得である。
金をもらって勉強させてくれているわけであるから、この上なく得であることは確かだが、何かの役に立つ技術が得られるわけでもなし、続ける必要がないことだけは確信が持てる。


最近は自粛自粛の大合唱で「どこが自粛だ?声が大きくないか?」という人が増えており、我が家に世間と繋がる媒体が少なくてよかったと思う。
派遣先でも「コロナ感染者が別の支店で」「緊急事態宣言は今度いつまで」云々…口を開けば新型肺炎の話題である。

わたしは能がないため、出勤せざるを得ない日が週に何度かあり、妙齢の女性や初老の男性から「御家族が心配しているかもしれないけど」などという旨の話を振られるが、その際には笑顔で黙る。これが処世術というものである。
これで何か家族の話を広げれば、そこからは嘘八百の大売出しになってしまう。実家がどこ、親はいくつ、最近いつ帰った…大抵の人間は他人の家族など興味もない割に汎用性の高い話題のようで、とにかく本件については笑顔で黙るが今のところ無難な返答であることに違いはない。黙るが返答か否かという論議はまた別のところでお願いしたい。
明日からは五月なのだ。四月馬鹿はそろそろ忘れなければならない。


万が一、感染したとして心配する家族がいるかと言えば、きょうだいは心配するかもしれないし、しないかもしれない。わたしの想像力の及ぶ範囲だと「おそらくそこまで他人に興味がない」あたりが最適解だと思われる。
親やその他の親族については正味な話、どうでもいい。死んだらそれはそれだし、派遣に慶弔休暇はあるのか?という疑問もあるが、愚問である。
まず、わたしは冠婚葬祭に呼ばれない。理由は知ってる人は知っていればいいし、知らない人は気になっておけばいい。気にならないならそれが無論いちばんである。


働くことを拒否して学生でいたものの、学生でいるにはとにかく金がかかった。社会人はいかに金がかからない生き方なのかを学ぶことができた。これはわたし自身が何かの間違いで配偶者ができ、子どもができたときでなければ感じることができなかった感覚のひとつのはずである。
この収穫は相当大きい。とにかく金はかかる。生活するのに金はかかる。勉強するのに金はかかる。資格を取るのに金はかかる。
つまるところ勤労に仕向けようという頭のよい大人たちの邪な思惑を直に目の当たりにしたという学生生活であった。言い換えれば有意義であった。
わたしは再度学生になることで、勤労の楽さを知り、勤労から逃れるべく勤労に励むこととなった。頭のよい大人たちの思う壺であるが、そんな見え透いた魂胆に乗ってやれるほど頭のよい大人たちの教育はうまくはいかなかったわけである。

わたしが類まれなるゆるさの勤労に嫌々勤しんでいる(机上の上)のは、再び学生に舞い戻るための準備でしかない。
義務教育はわたしに敗北した。勤労と納税からとことん逃れてやろうと思っている。
義務を外されると途端に学生生活は楽しくなる。楽しくなるわけではない。正確には自身の選択肢が広がるために自由度が上がったように感じられるだけで所詮は文科省の檻の中であることに変わりはないが、受動的に閉じ込められているのと能動的に檻に入りに行くのとでは、監獄生活もまた異なる視点で活動できるようになるのである。


話が逸れてしまうので、そんなところで。






自粛中のニコライ堂

人生初の話

読んで字の如く生まれて初めてのことである。


そんなことより私事の諸々が一段落し、今年度を振り返り、なんて心穏やかに過ごしてきたのだろうかと考えていると非情に無意味で有意義な時間であったとしか表現しようがなく、自身の語彙の少なさに悲しくもむなしくもなるのである。

無意味は、そのまま本当に意味のない時間であった。仕事をしていればその分キャリアも積めたであろうし、わたしの病的な貧困妄想は緩和されたかもしれない。資格試験も合皮はまだわからないし、無意味であった。
無意味と言い切れてよい時間であった。

有意義はまる一年、もしかしたらもっと昔からの重なりがあったのかもしれないが、掲題の通り、生まれて初めて自分の何でもない日常が連綿と続くのではなく、いつかどこかで何が原因かわからない瞬間に終わりを迎えることを考えて「かなしい」やら「さみしい」という感情を抱くようになった。
卒業式や転校、送別会、そして葬儀
そういう諸々の別れの場面で泣くひとたちのきもちが全くわからなかった。わかってもわからなくてもよかったことが、初めてなんとなくわかった気がした。

今、何かに怯えることもなく、何かを恐れることもなく、ただただゆっくり時間が流れていくのをしあわせだと感じたり、誰かと会う約束をしたり、誰から返事が来ることを楽しみにしたり、誰かがしあわせになってほしいとか、毎日平穏に過ごしてほしいとか、そういう気持ちも何もかも、全部が急に無になってしまうことがこんなにかなしいことなんだとようやくわかってきた。今更ではある。



今更でも気が付けてとてもうれしかったので久しぶりにブログを書いたというわけである。
わたしはこれからなんとなく誰かの配偶者になることもなく、ひとりで他人のしあわせを見ながら、そのおこぼれに与って、やわらかい気持ちを抱いて生きていければいいと思っていた。わたしも病気じゃなかったら、もっとたくさん本当に言いたいわがままもしたいこともたくさんあった。
過去形にしてしまうとできなくなくなってしまいそうなので、今後のことはわからないことにしておく。
だが、これからもわたしはわたしが自分のすきなひとたちがしあわせにおだやかに平和に過ごしてくれたらそれがいちばんなのだと思う。





いつだったか、誰かの結婚式のとき、新婚の方へ向けて手紙を書いたことがあった。
丁寧に返事が来た。
「あなたもどうか素敵な人を見付けて自分の人生をおくってください」
こんな感じの文が書いてあった。自分には関係のなさすぎる事柄かと思っていたことを他人からしかも社交辞令であろう文を読んで思わず泣いてしまった。
当時はどう考えてもわたしにそんな余裕はなかったし、そんな望みは持つべきではないと思っていた。
でも、泣いた。
とにかく泣いた。
今思い出しても泣ける。本当に自分がそんなしあわせを望んでもいいのか、人並みなことかもしれないが、人並みではないわたしを
まあ、あんまり書くと泣き始めるからここら辺でやめておくか。




とにかくわたしにもわたしの人生があることはわかっていたのだが、それが唐突になくなる日のことを考えてこわくなったのである。
ただそれだけのことだった。
そんなところで。





ここのところは心の底からしあわせなことが多くて様々な事象に甘えがちで、こわがりつつも試しているようなことばかりだったが、いつかわたしもいたずらをやめて他人の顔色を窺わなくて済むようになりたいなと思った。
それでも、いたずらはやめない気もするが、おおらかなひとたちにめぐまれたのでそれはそれでよしとする。







わたしはひたすらにしあわせである。









変な色したチラーミィ

夕立の話

最近めっきり聞かなくなった言葉である。



昨日だろうか、久しぶりに夕立的な夕立に遭った。
空には稲妻が走り、少し経ってから大粒の雨が降る。
夏の風物詩にようやく会えた気がした。

以前の記事でも書いたかもしれないが、わたしは傘が好きである。
ビニール傘と折り畳み傘はわたしの美徳に反するため持たない。
何もないときに雨が降ったら、それは濡れて帰るべき時なのだと思う。

傘の何が良いか、
自分の領域を作れるような気持ちになれること
傘の上で爆ぜる雨音がよい
何となく守られているような気分になること
そんなところである。


とはいえ、傘を使うのは雨の日だけではない。
3月あたりからは日傘でだいたい11月か12月まで使い続ける。
日傘は黒か紺、雨傘は白と水色か青のストライプと決めている。
晴れの日には自分で影を作り、雨の日には晴れの雰囲気を自分で作るのである。
単純だが、自分の機嫌を自分で取るには至極有効な方法である。




賞与が入ったらまた少しいい傘を買うことにする。




そんなところで。




まるまるビリリダマ