おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

早期満腹感の話

満身創痍とはこのことか。

 

 

少し食べただけでお腹がいっぱいになる。

胃が小さくなったか?

単純な薬の副作用の食欲不振か?

唾液減少の嚥下困難か?

まあ、もろもろ考えたり調べたり悩んだり放心したりラジバンダリ。で、機能性ディスペプシアという単語(昔から知ってたけど自分が当てはまる感じはしなかった)の早期満腹感がそれっぽいなーという雰囲気が出てきた。

 

 

 

ちなみに自分の体のことをあれこれ「病気では?」と調べる(心配する)のも心気症という精神病であり、要するにメンヘラである。

心理学専攻はメンヘラになる。まっとうな道をたどっている。

 

 

 

 

12月になったところで何が変わったかよくわからないが、次の診察で薬が減ることを願う。

 

 

 

そんなところで。

いつもソリスト

 

 

 

 

震顫。

抜毛の話

脱毛ではない。

 

 

ストレスゆえに再発した疑惑である。

会社にいるとき、気が向けばお手洗いに立ち個室でとにかく髪の毛を抜く。イライラしているのか、抗不安剤を飲めばおさまるのか、働くのをやめればおさまるのか、そのあたりももはやよくわからない。

 

つかれたの一言に尽きる。

 

 

 

抜毛症という言葉もあるくらいで大抵が何らかの別のストレス性の病気だか疾患と併発するが、ほぼ手癖になっている人がいるのも事実である。異食や軽めの自傷とほぼ変わらないというのがわたしの認識で、まあ瀉血するよりややマシかなというところである。

人によっては円形脱毛になったりもするらしい。抜き方の問題で満遍なく抜けばいい。

無論、抜かずに済むような生活を送るべきであるが。

 

 

 

 

書きたいこともよくわからなくなってきた。

 

 

 

そんなところで。

 

 

 

アンピュテーション。

保険に入れないの話

2018年7月の下書きです。

  

 

 

 

 

障害者手帳障害年金を受け取っている。

 

 

 

診断名は当時が双極性障害である。おそらく今も変わらないだろう。

いわゆる躁うつ病というものである。

診断名が変わったのは確か今年に入ってから。主治医が「障害年金の申請をしてみてはどうか」という提案をしてくれたため(相当珍しいらしい)、年金やら何やらを申請するに至った。正直かなり屈辱的な気分にもなったし、過去のことは思い出したくもないし、そこまで社会福祉に頼って生きなければならないのか?という迷いもあった。

使えるものは使ってしまえ、という結論に至って現在のわたしがある。

 

実際、自分でも躁うつだと思う。というより、ラピッドすぎるくらいのラピッドサイクラーだと思う。自分の感情と行動についていけないことが多々ある。

楽しく飛び降りたい。そんな気持ちによくなる。躁のときはいつでも最高でハッピーで最低で死に近い。

 

最高でハッピーでも病識だけは持っていたい。

ただ、自分のためだけに通院する意味はあるのだろうか。服薬で躁をコントロールできれば、社会的には益になるが(正確には迷惑をかけづらくなるが)、そもそもわたしは社会の益のために定期的に通院服薬するのを確定で一生行う必要がある存在なのか。

 

どうしようもない悩みは尽きない。

 

 

 

 

薬も増えた。

気分安定薬が3種類

眠剤2種類

抗不安剤1種類

副作用止め2種類

寝る前が多い。

 

 

  

そんなこんなでわたしもメンヘラの例に漏れず寝る前の健忘的な時間は大抵何かしら健忘的に過ごしているがなんとほぼ保険のパンフレットを請求している。

健全かつ意識明瞭なときの打撃の大きいものである。

告知義務の関係で生命保険はもちろん入れず、緩和保険のようなものにも入れず、養老保険だか入院保険だか就労保障保険だかまあその類にも全く入れない。ごみである。

 

 

現代の河原乞食はこんな感じであろう。

正味な話、つかれたので医者か看護師と付き合って存分に血を抜いて死にたい。

 

いつだって瀉血は全ての病から救ってくれる。

中世の医学が証明している、生きる体力のない人間は治療行為に耐えられず死んでいくのである。死が救いか否か、わたしは特にどちらでもよいが、手軽で衛生的な死に方だと思う。死ねば通院と服薬から解放されるし、治ればそれはそれでよし。

双極は治らないため、死ぬか薬を飲むかしかない。

迷惑をかけてもよければ薬をやめればいいものの、結局脳を酷使すればするほど死は近くなる上にわたしが疲れる。

躁のときの爽快感や全能感の代償が大きすぎる。いい加減につかれた。

 

自分の血は汚いから他人に処理してほしい。

特に天国か極楽かもしくは地獄かそんなところがあれば暇つぶしにでも見学したい。死んだら無であると思う。

 

死んだ金魚を見るたびに生者にとって死に救いはないが、死者にとっての救いがあるように感じる。

伝わらなければそれでよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなところで。

 

 

 

ヒステリー球。

また瀉血の話

おそらく2度目である。

 

 

 

わたしは身体に異物を入れるよりも出す方が好きである。

排泄というよりは、完全に瀉血である。

自己の意識化、管理下で要るのか要らないのかわからない、とにかく自分の所有物を排除してしまいたいのである。自分の中から自分の何かが減っていけばその分自分がこの世界から薄くなる。

この感覚はおそらく他人には理解し難いものだと思うが、なるべくわたしは自分を薄めて生きていきたいのである。

 

 

瀉血の効能としては

(個人の主観ゆえ参考にしないように)

気分が晴れる

ストレスが解消される

肌が綺麗になる

痩せる

代謝がよくなる

気持ちが落ち着く

じぶんが薄まる

このあたりである。

 

 

 

 

しかし、ここのところはまったく血が抜けていない。

健全と言えば健全であるが、なんとなくいらいらしやすくなったきがする。

 

 

 

方法も前に書いた気がするので次回にでもま高く。

 

 

 

 

そんなところで。

 

 

 

午夜の待ち合わせ。

あぐれ

病院に行きまくってるの話

久方ぶりの更新になってしまった。

 

 

掲題の通り、病院に行きまくってる。

通常運転の心療内科、意識消失の痣治療の皮膚科、筋弛緩剤の効かなくなった首肩肩甲骨周りに局所麻酔、ついでに顔のホクロもどきも焼いてきた。

人肉、正確には人肌が焼ける匂いはいつ嗅いでも慣れるものではない。

 

 

 

さて、せっかくなのでトリガーポイント注射の話でもしておこうと思う。

慢性的な肩凝りあたりに有効な治療法らしく、トリガーポイントという痛みの原因箇所に局所麻酔を打つことで神経を遮断(筋肉を緩め)痛みの緩和を目指すというものである。

まあ、詳しいことはペインクリニックに聞いてほしい。

 

 

わたしは初のトリガーポイント注射で計8箇所、ネオビタカイン10mを打ってもらった。

打ちたてのときは麻酔のため当然であるが、普段使えている筋肉が重だるくうまく動かせない感覚であった。それも2,3時間で消え、寝る頃には今までデパスで誤魔化してきた首肩の強張りが驚くほどになくなっていた。

 

とりあえずは月に何度か通ってみて様子を見るつもりである。

トリガーポイント注射は施術の先生によってかなり効果が違うとのことなので、最悪あまり効果がなかったら別のペインクリニックに行けばいいだけの話。保険適用のため、そのあたりのハードルも低くありがたいことこの上ない。

 

 

 

 

同日に行ったシミ(ホクロもどき)飛ばしの焼き焼きはQスイッチヤグ等ではなかったようで1度で即効とのことだったので、こちらも期待している。

正味、やる必要のあるのか微妙な所であったが、シミっぽく見えるよりはよいと思い踏み切った。

綺麗な白肌であり続けたいものである。

 

 

 

 

そんなところで。

 

 

涅槃で待ってる。

あぐれ

せのたかいもんすたーつりーの話

しゃからびっつではない。

 

 

しゃかぞんびでもない。

これもまた例に漏れず意味はない。

というか、また更新が滞った。文を書こうと思わない方向によくなってきているのか、思えない方向に悪くなっているのか、微妙なところである。

 

 

 

今日も今日とて何やらの副業をしてきた。

 

 

 

 

最近、ものを食べると背中のあたりが痛くなる。

食べるのをやめた方がいいのか、食べるもの自体を変えた方がいいのか。

 

 

 

そんなところで。

 

 

 

 

しおんたうん!

てんたいかんそくのはなし

これもまた意味は無い。

 

 

 

強いて言えばたまたま書いているときにオブチキンの天体観測が流れていた。それだけである。

 

 

 

 

秋服がない。秋服はともかく、冬服もない。

冬服がないと冬に皆から心配される。

それが困る。

心配されるだけで無視をすればいいという話もある。

 

 

 

 

いつだって春秋兼用の服にストールでも羽織っておけばいいと思っている。世の中はそんなものなのか、よくわからないがまあいいだろう。

 

 

 

 

 

最近、本当に長文を書けなくなってきた。

薬のせいか、もう戻らないのか。しんどいところである。

 

 

 

しばらくはリハビリの文が続きそうな予感である。

 

 

 

 

 

そんなところで。

 

 

 

 

わざましん!