おかかえのあたま

ぐれたりぐれなかったり

暖かい日にはの話

ここのところすっかり初夏を通り越して夏の陽気になってきた。本当にこれから梅雨が来るのだろうか。雨と湿度は仕方がないので、せめて気温だけでも下がってほしいところである。

 

 

さて、暖かい日、もとい暑い日の話である。

大抵外に出るときはノースリーブか半袖のワンピースに日傘、クロックスというのが定番だ。朝か夕方の気温が高くない時間帯に外を歩き回ると風が心地よい。日の出前に散歩に行くのがいちばんだが、ここのところは二度寝チャレンジ実施中につき、朝の暗いときには外に出ないようにしている。紫外線を気にしなくていいときに外に出たいが、致し方なし。散歩は夜の楽しみにしておく。

 

 

暑い日には水浴びをするのも気持ちがいい。冷たい水を頭から浴びていると、自分の体温が少しずつ奪われていくのを感じる。冷えた体はまるで自分が生まれ変わったような新鮮な気持ちになる。夏が近付いてくると、お風呂上がりには必ず水で体を冷やしておく。書いていて思い出したが、冬でもお風呂から上がる前は体を冷やしていた。基本的に冷たい自分の体がすきなんだと思う。ひえひえは最高だ。気持ち悪い体温はいくらだって下がればいい。ひえひえのわたし、ひえひえの体温、ひえひえの手、ひえひえの髪の毛、ひえひえの冬、ひえひえはやはり最高だ。早く冬になれ。

 

 

 

本格的に夏が来てしまうと、水浴びどころか風呂が水である。体には悪いかもしれないが、気持ちいいと思ってやっているのだからやめられない。というよりも、自律神経が壊れ気味でなんでも冷たくしておかないと気持ち悪くなってしまうのだから仕方がない。

 

 

 

暖かい日には日傘をさして散歩に出掛ける。自分で陰を作る感覚は毎日のように日傘を使っていても気分がいい。言わば日陰クリエイターである。大きな木の陰や、太陽との関係で建物の陰になっているところもいい。そういうところで日傘をさしたままのんびりすると風が心地よい。木陰のベンチか何かに腰を掛けてゆっくりしたいものの、大抵ご高齢の先客がいるのでわたしはいつも少しぼんやり立ち止まって風を頬に受けたら、また歩き出すのである。

こう見えてご高齢の方々には優しくするようにしている。まあ、生い先短い方々にいちいち目くじらを立ててもストレスが溜まるだけだ。実害がない限り、わたしは彼らにいろんな物事を譲ろうと思う。きれいな書き方をしたが、科学が唐突な延命技術を発見・実用化されない限り、ご高齢の方々はどうせもうすぐ死ぬのだから、いじわるしたってあとあと自分の目覚めが悪いというだけの話だ。もう少しやさしくしたい気持ちはあるが、心ないご高齢の方々に今まで嫌なことを言われたりもしたので面倒事を極力避けたいと思っている。人間はどうして老いると幼児化するのか。しかも困ったご高齢の方々は大概頑固この上なく、話どころか日本語が通じない。何時代から来たのだろうか。頼むから日本語を理解する努力をしてほしい。棺桶に片足突っ込んでいる奴らに何を言っても無駄なのは重々承知の上でのお願いだ。

 

 

 

話を戻して暖かい日のことだ。

洗濯をする、布団を干す、家の中に風を通して換気する。それだけでもその日が充実したような気持ちになれる。わたしの感情はコスパがいい。太陽の下で乾いた服や布団を触っているとおだやかな時間をすごせているように感じる。ふかふかの布団はいつだって最高だ。もちろん夜になれば「こんな暑い布団で寝られるか」と悪態を吐きたくなることもあるものの、そんなときにはまた頭から水をかぶればいいだけのことで大した問題ではない。モノに怒っても何も生まれない。自分をどうにかした方が手っ取り早い。

 

 

 

 

暖かい日はひえひえのレモネードが飲みたいね。

 

 

 

氷もたくさん入れて。

ぐるぐるのグラス。

あぐれ

早朝覚醒の話

不眠のことである。

 

 

書き始めはAM04:00。就寝時間はおよそ3時間前だ。朝起きるのが早すぎる。これが早朝覚醒というものである。かれこれもう10年以上の付き合いになる。通院前から不眠気味だったが、当時はただのショートスリーパーだと思っていた。まあ、育ち盛りが3時間程度の睡眠でいいはずもなく、皺寄せが露見するのはいつになるのか、というだけだったのだろう。

少しずつ蓄積される狂いも歪みも、耐えられなくなったときに決壊するのを待つだけである。割れた茶器は金継ぎでもすれば、元通りとは言わずとも他人からの鑑賞に耐えうるものになりえるが、金継ぎするにも限界がある。欠けたところを少しずつ継いで継いで漆を塗っては金を吹き、きれいに見えるように誤魔化してやってきたつもりだったが、つもりで終わってしまった。継げるところがなくなればもうあとは廃棄を待つのみである。病気がわかった頃は、こんなことを考えていた。金継ぎほどの価値もない人生だが、継ぎ接ぎしているという点ではあながち間違いではないと思う。

 

 

以前書いたが、わたしは日の出前のさんぽがすきだ。

 

af-doctor.hatenablog.com

 1日でいちばん冷える時間、これから新しい世界が始まる予感、静かで息を潜めるように佇む街並み、少しずつ1日の始まりを告げながら絵の具のにじんだような色をする空、全部が早朝のいいところだと思う。余計なものが少ない。1日の中でもっとも洗練された贅沢な時間だ。

だから、わたしは睡眠時間が多少短くても、たとえ病気の症状であっても、早朝覚醒はいうほど嫌いではないのである。後ろ向きになっても仕方がないというのもある。

 

 

 

今日はさんぽに出かけたいところをこらえて二度寝チャレンジにのぞむこととする。眠れるかどうかわからなくても、わたしだけの贅沢な時間を過ごせると思うと病気であることも悪くない。こんなことが言えるのは、手持ちの薬が潤沢にあるからで、なければ瀕死なのは火を見るより明らかである。

 

 

 

 

いつか薬を飲まずひとりで寝ても連続で6時間睡眠が取れるようになりますように。

 

 

 

 

名糖のレモネード飲みたいね。

 

 

 

 

ぐれないうちにまた就寝。

あぐれ

薬を入手したの話

精神科だか心療内科だか、とにかくメンクリに行ってきた。

 

 

ゆえに薬を入手した。かんぺきパーフェクトである。今は無敵だ 。

この前までの弱気なわたしはどこへやら、薬さえあればどうにかなる。

逆を言うとこの前の状態に陥るが、それはまあそれ。

 

 

手元に薬がある安心感は本当にお守り以上の効果がある。ない薬は飲めないが、あれば飲む飲まないの選択肢ができる。この違いは大きい。

正直なところ、薬の有無が精神の安定を大きく左右している今の状態からは早く抜け出したいものの、突発的な焦燥感や不安感が最近多いので、やはりないと困る。悪循環である。今度、根本的に自律神経を治すにはどうすればいいのか聞いてみるつもりだが、大した返事が来そうになくてやる気が出ない。

今の主治医との相性も微妙な気がする。相性というか、価値観か。

 

 

 

そもそも意欲が爆上げするような抗うつ剤を出してほしい。

リタリンの処方が厳しくなってから、それに代わる薬は出されてるんだろうか。わたしは飲んだことがないけど、リタリン信者の話を聞くと、効果は相当らしい。ヒロポンか?

 

 

 

ロボトミーもありなんじゃないのかなあー。知らんけどね。

 

 

 

 

試写会にまた当たったよ。

 

   

 

まぐれあたり。

あぐれ

ブログを始めてからの話

今日でちょうど1ヶ月である。28日経ったらしい。

 

我ながらよく飽きもせず毎日何度も更新したものだと思う。今朝時点での読者数は70人ちょっと、アクセス数は合計で2500ちょっと(よくわからない)。

更新頻度が高すぎるのでこんなもんなのだろうか。よくわからない。

 

 

始めた頃は「3日も書けば飽きるかな」と思っていたが、時間のある限りくだらない記事の投稿はできそうな勢いである。 アウトプットが多いということは、やはり軽躁なんだろうか。軽躁なら軽躁でもっとキレのある文を書きたいものである。文化的素養、一般的教養に乏しいのでどうしても毎度似たり寄ったりの言い回しになってしまう。せっかくしおりを買ったことだし、わがまま言わずに本を読むべきか。

 

 

 

さて、アクセス数=記事の閲覧数だとは思っていないが、毎日100PV弱あるというのはうれしいものである。どこの誰ともわからぬ無職がメンヘラつらいだの、こんなことがあっただの、暇潰し以外にはならなさそうな内容をつらつら書き連ねているだけなのに読んでもらえている事実に少し感動する。まあ、適当におだてておけばこれからも読んでもらえるかなーという浅はか極まりない思考で書いた。わたしはその程度の人間である。

 

 

 

ブログを書くことのメリットは手軽に承認欲求を満たせること以外にもあって、書くことで意外と思考の整理ができるようになった。基本的にわたしの頭の中はびっくりするくらい散らかっていて、常にいろんなことばと考えがばらばら飛び交っているのであるが(これだけ書くと発達障害の疑いが出そうだが、ウィスクもワイスも問題なしである)、文字に起こす作業をいれることでばらばらしていることばが繋がって、線になり、ひとまとまりになり、適度な位置に収納されるのである。部屋の中でも頭の中でも、ものがあるべき場所で落ち着いている状態は安心する。まあ、これはあくまでもわたしの頭の中のイメージだが、ことばが湧き上がってきてどうしようもないときにブログに書き殴ってすっきりするというのは要するにそういうことなんだと思う。

 

 

 

再び仕事に就いたり、頭の中の散らかりが少し片付いたら毎日1回だけ更新するということができるようになるのかもしれないが、好き好んでこのブログを読んでいる方々はしばらくわたしの異常更新に付き合っていただきたい。

自分できちんと更新頻度が高いという自覚があるだけまだまともなのだと言い聞かせている。この手の表現は自己の正当化をする際に使うと最強にかっこ悪いと思うが、事実なのだから仕方がない。

 

 

 

おだやかな日常を書いていきたいね。

 

 

 

 

アングロサクソン

あぐれ

試写会に行ったの話

「終わった人」という映画の試写会に行ってきた。これも記事作成日と投稿日時がずれているのは悪しからず。

 

 

完成披露試写会だったので、舘ひろし黒木瞳広末涼子あたりが登壇して挨拶をしていた。他の人たちは見たことあるけど名前がわからない系列である。失礼で申し訳ないが、テレビをあまり見ないため、芸能関係に疎い。監督もリングか何かを撮った人とのことだった。なるほど、有名人ばかりだ。

 

 

内容はネタバレになるので詳細を差し控えるが、人によって見え方がかなり変わる映画だったんじゃないかと思う。コメディ要素が多いものの、主線から離れることなく最後は冒頭のフレーズをうまくまとめてきたかな、という印象。

要するにそれなりに面白かった。

 

 

原作者の方の挨拶が人を惹き込むような話し方で見習いたいと思った。土俵が違うのでなんとも言えないところではあるが、物書きの方が役者より説得力のある話し方ができるのだろうかとさえ思ったくらいだ。比較対象がないのでなんともいえない。とにかく原作者に好感が持てた。

 

 

わたしは今無職なのでこれもまたコメントしていいものか迷うが、定年退職後の父親の話を中心に据えた映画で、退職後の手持ち無沙汰感がなんともリアルでよかった。

無職は手持ち無沙汰ではないのか、と聞かれそうだが、手持ち無沙汰なりに好きなことを自由にやっているのである。そこが世の中の濡れ落ち葉とは違うところだ。

身内や他所の方に迷惑をかけずおだやかに過ごす。これができればかんぺきパーフェクト。はなまるひゃくてんである。

 

 

 

映画の内容をざっくりまとめると、信頼できる家族っていいんじゃないの?というところ。これはフィクションなので安心して観ていられるが、現実だって適切な距離感は家庭によってそれぞれであるし、結局のところどういう選択をしていくのかが重要なのだと思った。

映画の批評は得意ではない上に話が逸れるのでこのあたりで。

 

 

前にも書いた記憶があるが、試写会のいいところはいい映画なら「みんなよりさきに観られてよかった」と思えて、つまらなかった映画なら「わざわざ劇場に行って金を払わなくてよかった」と前向きになれるところである。

今回の「終わった人」は金曜ロードショーでやっていたら観るが、劇場に足を運ぶほどではなく、内容としては試写会で観られて得をした気分になれる感じであった。この感覚は伝わる人にだけ伝わればいい。

 

 

わたしも脳みそが終わった人なので、今後に関してよく考えねばである。しばらくは貯金を食い潰しながら、おだやかさを享受していく所存。

 

 

 

 

やぶれかぶれまぐれはずれ。

あぐれ

デザフェスに行ったの話

昨日、今日と東京ビッグサイトでデザイン・フェスタが行われていた。略称デザフェス、個人で創作したものを出展販売したり、ライブペイントやワークショップ、ショーステージなどもある。アジア最大級のアートイベントであるらしい。本当か?

 

 

わたしは今年初めてゲスト側でデザフェスに行った。ふつうにチケットを買って、ツイッターで何かめぼしいものがないかを探し、目当てのブースに行き、購入した。まあ、要するにただのお客である。

わたしの目当ては青系のしおりで、3ブースのうちのどこかでひとつ購入できればいいかなーくらいの気持ちであった。人生初のデザフェスであったが、毎回デザフェスに行く知人と一緒だったので、そんなに困らず動くことができた。

 

 

 

開場はAM11:00だったが、少し前に行ったら長蛇の列であった。やや心配したものの、列はするする動き、特に苦もなく会場内へ。最初の30分程度でわたしと同行者のいちばんの目当てのものは買えたので、あとはくまなくブースを周り、気になるものがあったら買うことにしようということになった。

 

ちなみにわたしが買ったのはこの万華鏡の中が表現してあるしおりである。実物は透けていてきれいだが、わたしの写真の才能が皆無のため、何一つ伝わらないところが残念だ。

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その他、購入はしなかったが写真撮影、SNSに掲載OKとのことで宇宙ガラス的なものも撮った。地球儀みたいできれいである。どうやって作っているんだろうか。知ったところで作れはしないが気になるものである。

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きれいだが、高くてわたしには手が出せないなあという気持ちで静かに見ておいた。

 

 

 

その他にも曜変天目もどきの陶器や切り絵、ミニチュアの家やら、個性的なアクセサリーやらとにかくいろいろあった。11時から会場にいたというのに全てを見て終える頃には17時近くになっていた。普段目にしない絵や、ライブペイントはわたしの興味をよく惹いた。下書きなしで絵の具で塗りたくる様はそれ自体が絵になる。創作の才がある人のことをぼんやり眺めているのは時間を忘れるくらい楽しかった。なかなかに充実した1日だったと思う。

同行者はアクセサリー類を買っていた気がする。正直、他の人が何を買っていてもあまり興味がないので覚えていない。わたしは目当てのしおりを買って満足した。もっと衝動的に購入してもいいように多少余裕を持って行ったつもりだったが、あれこれ見て回るだけで満足してしまった。購入品はこのしおりだけである。

これからぐるぐるの万華鏡みたいなしおりでいろんな本を読めるのかと思うと楽しい気持ちになってくる。ぐるぐる万華鏡が二度と同じ模様を映すことがないようにわたしもたくさんの本を読んでいきたいと思う。万華鏡絡みでうまいことを言いたかったが、難しかったので少し反省している。

 

 

 

なんだかもっと書きたい気もするけど、せっかく下手な写真を貼ったのにあれこれ書いては写真の存在感が薄まる気がするのでこれくらいにしておく。

 

 

 

 

ぐるぐるまわってたくさんあるいた!

 

 

 

人生もぐるぐる万華鏡。

あぐれ

セルフ熱帯夜の話

書き始めの時間は午前3時30分。起床は3時ちょうどである。暑くて起きた。

 

 

 

暑いとはいえ、室温は15℃。敷布団はなく、また服も着ずに寝ている。しかし、暑いのである。熱があるわけではない。例の灼熱感がよろしくない。

散歩に出掛けそうになるところを堪えて、さっき首から下を水で冷やしてきた。冷たい水は気持ちいい。本当は外に出て日の出前の空気を体いっぱいに浴びたい。ひんやりした外気が大好きだ。冬が終わってしまって本当にかなしい。

 

 

自分の中では自律神経のせいでこうなってると思っていたが、知人から「甲状腺か何かの病気の可能性があるのでは?」と指摘されて、うーんなきにしも?という気持ちになった。ただ、特別体温が上がったり、食欲が常に亢進しているわけではないので、どうなんだろうか。診てもらって投薬か手術で確実に治る病気であれば何だって構わない。おかしくなった脳みそは交換でもしない限り、もうどうしようもないのである。

 

 

 

今は入眠剤しか出ていないから、薬を増やしてもらうべきか迷いどころである。眠れなくたって今は構いはしないが、仕事をし始めたら、眠れないこと自体がストレスになってくる。余計なことを考える時間が増えてしまう。

 

思うに精神病の患者に考えさせることをやめれば、4割くらいは寛解するのではないかという気がする。その4割を含む全体の8割もまあ大体6億円ほど渡しておけば寛解するだろう。

こうやってオープンにして働くことができず、宙ぶらりんで頼れる実家や配偶者がいないという人間は日本には要らないってことなのかもしれない。障害手帳を取って、障害者雇用で働けたとして、生活保護を併用するか、夜の仕事と掛け持ちでもしなければ、一人暮らしは続けられない。残念なことにわたしは一人暮らしなので自活ができる認定をされてしまい、障害年金はおそらく受け取れない。もっと振り切って頭がおかしくなっていればよかったとつくづく思う。まあ、振り切って頭がおかしくなっていたところでどうせまともに働くことも叶わず、死にたいと茫然自失になるのは目に見えている。病気になった時点で詰みが確定しているゲームだ。

 

 

詰み確でそれでも生きろなんて外野は好き勝手野次を飛ばせて羨ましい。ぜひ1度この灼熱感と不眠の絶望の起床をまる5年間体感してほしい。起きてる時間が長すぎて生きるのが嫌になるはずだ。

 

 

 

さて、今日もつらつら書いたところで二度寝チャレンジいきますよ。

 

 

 

水浴びでぐれないように。

あぐれ